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ぐひんの山 終章

 浅い息づかいが、次第に深くゆっくりと落ち着き始めた。陽菜は玄関の引き戸の向こう、夜が明けるまでの長い時間、誰も侵入できないようにそれだけを心がけた。縁側の掃き出し窓もきっちりと閉めた。玄関の引き戸も鍵を閉めて、見張っている。

 何をすれば逃げられるか、そのことばかり頭に浮かぶ。夜が明ければ、ぐひん様は山から下りてこない。太陽が平良須山から顔を出してすぐに母親を車に乗せる。そうすれば、母親だけでもぐひん様と饗庭村から逃がすことができる。

 陽菜は、愛しくて堪らなかった弥生の顔を思い浮かべる。その顔が、もろもろと土が崩れるように、弥生の形を保っていた虫が四散する光景を思い出す。

 弥生がもう二度と戻ってこないことに対して、哀しみと怒りが混じった感情がわき上がった。二年前に何があったか、想像に難くない。

 陽菜が幼馴染み達と平良須山に登り、タイムカプセルを埋めている間に、弥生は蔵に閉じ込められたのだ。『かんすさび』がどのくらいの時間、おこなわれていたか知らなかったに違いない。ようやく蔵の扉を開けたときにはすでに遅く、弥生は消え去っていた。『かんすさびが上手に出来ない子』だった弥生は、この世のものでない存在に連れ去られた。それがどこかはわからないが、確実に連れ去られたことで、弥生の体は変化して、ぐひん様の一部になった。過去、何人もの子供達が、『出来ない子』として連れていかれたのだろう。ぐひん様を具現化する力はそう言った子達によって作り出された。『かんすさびが上手に出来た子』『出来ない子』は、たまたまランダムに選り分けられているのだろうか。いや違う、と陽菜は思った。

 甕にはぐひん様。木箱にはおそらく福の神。その二つは対極にある。何かが鍵となり、『かんすさびが上手に出来た子』を選んでいるのか。それならば、ぐひん様こそ『かんすさびが出来ない子』を選び、福の神は『かんすさびが上手に出来た子』を選んだと思われる。

 陽菜は自分の過去を思い出そうとした。蔵に入ってそこで自分は何をおこなったのか、必ず覚えているはずだった。タイムカプセルに入れた手紙のことも思い出せたのだから、蔵での出来事も必ず思い出すに違いない。

 祖父に『かんすさびが上手に出来た子』と喜ばれたのは、福の神に選ばれたおかげなのか。しかし、その幸運は祖父母には訪れなかった。その福を手に入れたのは起業したてで金がなかった父親だった。『かんすさび』がおこなわれてから十二年間、父親は幸運を授かったが、十二年の期限が来て、再び、『かんすさび』をおこなう必要があった。

 弥生はその犠牲になったのだ。陽菜が『かんすさび』をした年から十二年後に、弥生は七歳になった。これはもはや不幸というしかなかった。

 落ち着きはしたが、緊張は和らがない。陽菜はじっと引き戸のガラスを見つめる。ガラス戸の向こう側に、弥生が現れないか、それだけが怖い。父親の安否も気になるが、探しに行く気がしない。

 甕と木箱の中身は対だと思われる。頭と体をすげ替えて繋がりを強くする。山の民はそうやって、装置を作った。甕の中身が禍々しいほど、福の神からもたらされる幸運は強く長く続いたのだろう。その期限が十二年だったのではないだろうか。十二棟の蔵があったのは、期限に合わせて分家を増やしたのだ。

 座敷牢はおそらく『かんすさびが上手に出来た子』を閉じ込めるためのものだったのではないか。そうでなければ、祖父がぬいぐるみを陽菜の身代わりに蔵に置いていくわけがない。

 弥生がしきりに「遊ぼう」と言い続けていたのは、弥生自身が『かんすさび』をされる側になったからだ。ぬいぐるみを補修することを選んで正解だった。

 真っ暗な玄関に一人膝を立ててうずくまり、時が過ぎるのを待っている。だれかに電話をして気を紛らわせたいと思うが、きっと話し声を聞かれて弥生がやってくる気がしてならない。今、弥生は里に下りて陽菜と母親を探しているはずだ。

 どのくらい耐えれば、夜明けは来るのだろう。不自然なほど静かな夜だ。しんしんと冷え、陽菜は寒さに震えた。仏間にある布団を持って来てくるまりたい気分だ。今までのことなどなかったことにして、眠ってしまいたい。けれど、それが許されない状況だ。

 手元にある装置は甕だけ。それも重要な中身がなくなり、封印も解かれてしまっている。つくもの見立てでは装置は壊れている。元に戻すには、桐野家の先祖の山の民と同じ事をしなければならない。

 甕の中身におそらくぐひん様の一部が封印されたため、ぐひん様は里に下りることが出来ず、テリトリーである平良須山から出られなくなった。

 同じ事が福の神にもおこなわれた。福の神も装置が壊れない限り、ずっと桐野家に縛られたわけだ。

 もしも、弥生が生まれなかったら、陽菜で『かんすさび』は最後になったはずだ。もし十二年ごとの『かんすさび』が途絶えたらどうなっただろう。果たして、身代わりのぬいぐるみで儀式をごまかせたのだろうか。

『かんすさび』は神に捧げる生け贄の儀式なのだとしか考えられない。陽菜のように福の神に捧げられるのか、弥生のようにぐひん様に捧げられるのか。

 そう考えたら、さぁっと血の気が引く。

 祖父はぬいぐるみを身代わりに作ってくれたけれど、もっと昔だったら、私宅監置という名目で地下の座敷牢に次の『かんすさび』まで監禁されていたかも知れない。

 雪の降り積もる音が聞こえてきそうなくらいに寒い。かじかんだ手を擦って息を吐きかける。

 自分の考える仮説が、背筋が凍るほど怖い。

 玄関先で雪を踏む音が聞こえて、陽菜はハッと我に返り、顔を上げた。

 まだ外は暗く、濃い闇に包まれている。陽菜は息を潜めて、じっと耳を凝らした。ざくざくと雪を踏む軽い音と、ハッハッという動物の息づかいがガラス戸の向こうから聞こえてきた。

 屋内のほうが外より暗いのか、ガラス戸にシルエットが見える。影はゆらゆらと揺れながら、引き戸の前にたたずんでいる。頭が異様に大きく、体は三歳児くらいに見える。その影がガラス戸を覗き込み、窺っている。

「陽菜」

 影が幼い声で呼びかけてきた。ガシャッとガラス戸にペタペタと手を突いて、引き戸を開けようとして、何度もガタガタと鳴らす。陽菜の名前を呼びながら、引き戸の前を右往左往している。聞こえてくる幼子の声と影を見ていると、次第に陽菜の脳裏に蘇るものがあった。

 七歳の時、『かんすさび』をするために蔵に閉じ込められた。艶やかな振り袖を着せられ、お菓子とジュースを与えられる。ろうそくの火すらない暗い蔵の中で、素直に何かが起こるのを待っていた。

 そのときに遊んだのが、たった今引き戸の向こうにいる男の子だった。首から下がオオカミの異様な姿を見ても、陽菜は怯えなかった。そのときはそれすら気にならず、その子を受け入れて遊んだのだ。

 それを思い出し、陽菜は口を両手で押さえて声が漏れるのを塞いだ。

 長いこと、二つの影は引き戸の向こうを彷徨いていたが、外が明るくなるにつれて、現れたとき同様に気配が消えた。

 陽菜はそこで初めて深く息をついた。外は黎明の光に包まれ始め、磨りガラスの向こう側に光が差し始める。それでもすっかり太陽が昇るまでは引き戸を開ける気など起こらなかった。

 まだ外に得体の知れないものがいるのではないかと怯えて、息を潜めじっとうずくまっていた。


 母親の様子を見に行くと、寝室の布団はそのままで、まさかと縁側のある部屋へ急いだ。縁側に母親がへたり込み、掃き出し窓を開け放って、外を眺めている。

 陽菜は慌てて掃き出し窓を閉め、鍵をかけた。

 母親は体を前後に揺らしながら、クマのぬいぐるみを抱きしめている。弥生が戻ってくるから掃き出し窓を閉めるな、と陽菜に言った。

 どんなに説得しても動こうとしない母親に逃げる気などひとかけらもないのを見て、今度は仏間にある甕のところへ一人で行った。

 甕のぐひん様を封じ込め、木箱と繋げバイパスの機能を取り戻すのに、先祖と同じ事をしなければならないのであれば、絶対に再現出来ない。甕と木箱の中身は解放されて、平良須山と饗庭村を彷徨いている。どうすればいいのか逡巡するが、時間だけがいたずらに過ぎていくように感じて、脂汗が額と背中に噴き出す。

「どうしよう……、どうしたらいい……」

 どんなに考えてもこのパズルを埋める欠片ピースが見つからない。早くしないと、何かが起こるような悪い予感にせき立てられて、じっとしていられない。

 甕だけだから良くないのか、けれど、木箱は平良須山にいる弥生の元にある。もしその木箱があのまま鉄塔の空き地にあるならば、木箱が元々あった蔵に甕を置くべきだ。

 甕を持ち上げようとしたとき、急に上着のポケットがブルブルと震えて思わず甕を床にゴトッと落とした。振動に驚いて陽菜は心臓が止まるかと思った。ポケットの中のスマートフォンに着信があったようだ。急いで誰からの着信か確かめようと取り出したが、何故かすぐに留守電に切り替わってしまった。白からの電話だったが、出ることなど出来そうにないから、スマートフォンをポケットに戻した。

 陽菜は改めて甕を持ち上げて、仏間を出ようと振り返った。目の前に母親が立っていて、驚いた陽菜は甕を畳の上に落としてしまった。封印が破られて今ではなんの役に立たない木の蓋が転がる。

 一瞬転がる蓋に目を向けていたが、ハッとして顔を上げた。目の前にいる母親の髪は乱れ、目がうつろにくすんでいる。さっきは見えなかった喉元にうっすらと赤い筋を見た。

「え?」

 陽菜は自分の目で見たものが信じられなかった。

「お母さん……」

 まさか、家に逃げ込んで寝室に母親を連れていったあと、縁側に出た母親が掃き出し窓を開け放ったのか。それなら、陽菜が玄関で見た影がいた間も、この窓は開けられたままだったのか。

 途端に陽菜の背筋が凍った。

「これを持ってどこへ行くの?」

 母親が静かな声音で訊ねてきた。陽菜が何をしようとしているか、理解はしていないけれど、それを阻止しようと思っているのは伝わった。

「家に帰るんだよ」

 陽菜は覚悟を決めると、語気を強めて返した。

 母親が右手に持っていたぬいぐるみを落として、不意にひざまずき甕を抱きしめる。

 陽菜は目を疑った。鉄塔の空き地に放ってきたぬいぐるみを、いつの間に手に入れたのか。確かに弥生がぬいぐるみを追っていったのを見た。何故、母親がそのぬいぐるみを持っているのだろう。陽菜はぬいぐるみを手に取って、母親の異様な行動を見つめた。

『桐野君』

 陽菜は血の気が引く思いがした。白の声がポケットから漏れて聞こえる。勝手に留守電が再生されている。

『……木箱の件で調べてみたんだけど、甕も同……蠱道が使われているんじゃないか。それは桐野君の先祖が作り上げた蠱術だと思……おそら……

じゃ……いかと思う。この蠱は多大な富を与え……けれど、一番恐ろしいのは見返りを倍に求めるところ……だ。蠱を使った人間を食い尽く……のが特徴だ』

 甕に覆い被さり、母親が首をうなだれている。乱れた髪から覗く白いうなじの赤い筋が痛々しく、且つ忌まわしく目に映る。

 ポケットから漏れる白の声音に何故かノイズが混じって聞こえてくる。

『甕と木箱の封印が解けたら、……ひんが解放されるだけでなく、閉じ込められていた福の……解放される。間違っていないなら、福の神は本来ぬいぐ……みとかではなく、神遊びさせ……ことで神に選ばれた巫女とし……十二年か……座敷牢に…か…禁して熟成させる蠱術だと思……ヒトを蠱にした独自の蠱毒だ』

 甕からむわっと鉄さびの臭いが湧き上がってくる。まさにおびただしい血液を甕の中に注ぎ込んだように強烈だ。まるで、壊れた装置がもう一度蘇ったかのように感じた。

『蠱の媒体がなんであれ、……金蚕蠱に類す……この蠱からは……逃げられない』

 突然、音声が明瞭になる。

『願い事をするなど言語道断だ。そんなことをすれば、見返りに命を持って行かれても不思議じゃない。願い事をして命を取られずに叶えることが出来るのは、巫女となった子供だけだ。そしてその子供が次の金蚕蠱になる』

 再び雑音で音声が途切れ途切れになり始めた。

『要……るに、ほんら……木箱に封じら……べき子供……十二年か……監禁され……はずだっ——』

 そこで電話は切れた。陽菜の意識は母親に向けられて、白の話は一つも頭に入ってこない。

 甕から立ち上る血の臭いを吸い込むように、母親が覗き込んだまま身動きしないのを見て心配になった陽菜は母親の肩に手をかけた。

「お母さん?」

 うなじの赤い筋がはっきりと見える。めきめきと音を立てて裂けるように筋が徐々に太くなり、筋からぷつぷつと血が滲み始める。

 まるで、甕の中から首を目に見えない何かに丸呑みにされて食いちぎられているようだ。

「お母さん、しっかりして!」

 陽菜は思わず、母親の肩を揺さぶっていた。

「お母さん!」

 これから何が始まるのかわからない恐怖が入り交じる悲鳴を上げながら、思い切り揺り動かした。その弾みでゴトンと甕の底へ音を立てて母親の首が落ちた。母親の体から力が抜けて畳の上にずるずるとずり落ちる。

 それを見て陽菜は悟った。首は山の民によって切られたのではない。

 甕からカサカサという音が聞こえてくる。甕と木箱は繋がっているのだから木箱を通して何がやってきてもおかしくない。

 陽菜はぬいぐるみを握りしめて、後ずさる。

 甕の縁を白い指が掴んだ。か細い囁きが聞こえてくる。

「お姉ちゃん、遊ぼう……」

 弥生の血の気のない肌の下で何かがざわざわと蠢き、手の甲の皮膚が波打った。二本の腕が甕から突き出し、母親の頭部が甕の口から現れた。目がどんよりと濁り、口が力なく半開きになっている。母親と首をすげ替えた弥生の細い首筋と肩が現れる。肩の白い皮膚の下で黒い虫が透けて見え、ざわついている。その肌から羽音を立ててプツプツと飛び出した蝿が、何匹も母親の白濁した眼球にとまる。

 木箱と甕の装置は最初から生きていて、二つを繋ぐバイパスもいまだに健在だった。けれど、新たにぐひん様が得た母親の首に生気はなく、本来弥生の首に嵌まるのは白の言うとおり陽菜の頭なのだろうか。

「お姉ちゃん、遊ぼう」

 甕から競り出てくる弥生の体から幼い声が響いた。

 這い出てくるアンバランスな少女の体と母親の頭を見つめながら、陽菜は目もそらせず凍り付いた。腰が抜けて、畳の上にひっくり返った。落ちた木の蓋が指に当たる。無意識に握りしめて、振り回した。

 陽菜は得体の知れない化け物を前にして、『かんすさび』をするべきか、いや、『かんすさび』が出来るのか、めまぐるしく考える。それとも逃げ切れるのか。

 めちゃくちゃに両手に持ったぬいぐるみと封印の名残がある木の蓋を振り回している内に、陽菜はあることに気付いた。

 母親の白濁した瞳がぬいぐるみを追っている。山でのことを思い出す。弥生もぬいぐるみを遠くへ放ったとき、そちらへ釣られて走り出したではないか。

 もしかすると、つくもに教えられて施した形代かたしろと髪の毛が、今も有効なのかも知れない。片手に持つ木の蓋に関しても思い出す。

 何故、甕を大学に持ち帰った二年間、自分も白も無事だったのか。封は破られていたのに、木の蓋を律儀にかぶせていただけで、何事もなかった。

 もしかすると、この封印はかぶせておく限り有効なのかも知れない。

 では、今、陽菜に出来ることがあるとすれば、この両手にある道具を使う以外にない。

 結論に至るまでにおそらく数秒もかからなかっただろう。

 陽菜は甕から這い出てくる腕に向けてぬいぐるみを差し出した。蠢いていた弥生の指先が、しっかりとぬいぐるみを掴み、甕の中に引きずり込んだ。ゆっくりと甕の中へと母親の頭部が沈み込んでいき、暗い甕の口に吸い込まれる様にして消えた。

 陽菜は急いで甕の口に木蓋をかぶせ、しばらく息を止めてジッとしていたが、物音すらしない事にようやく息をついた。

「お、終わった……?」

 陽菜は静かに呟いた。

 甕をようやく封じることができたのだ。

「よかった……よかったよぉ」

 安堵に込み上げてくるものがあったが、陽菜は深く息を吸って吐いた。まだ終わってない。木箱は山にある。要するに、木箱と甕は位置が入れ替わっているのだ。と言うことは、甕を蔵のひな壇に飾らねばならない。先祖は木箱を祀るために蔵とひな壇を作ったのだから、それが正しいやり方なのだろう。

 陽菜は木蓋が外れないようにガムテープを持って来て、念入りに木蓋と甕をテープで留めた。

 甕を持ち上げて運び出そうとしたとき、再びスマートフォンが鳴った。白からだ。

『さっきは突然切れたから驚いた。忙しかったの?』

 忙しいと言えば忙しいだろう。陽菜は全て済んだ余裕から笑いを漏らした。

「そんな感じです。そういえばさっきの電話、切れ切れでなんて言ってるか分からなかったんですけど、金蚕蠱って何ですか?」

『金蚕蠱っていうのは、蠱道の呪術の一つだよ。強力な呪術で、一歩間違えると、蠱を作り出した人間まで喰ってしまう恐ろしい蠱術だ。その代わり、得られる富や名声は計り知れない。ちゃんと見返りを差し出せれば、だけど。ところで、そっちで困ったことになってない? 一度そっちに行って実地で見てみたいんだけど』

 明るい白の声音に陽菜はほっと息をつく。

「分かりました、待ってます。どのくらいで着きますか?」

『今七時だから、多分十二時には着くと思うよ』

 昼間ならば、何も恐れることはない。陽菜は快諾して、家で白を待つことにした。

 それまでの間に陽菜は蔵に甕を運び入れて、ひな壇の上に置いた。地下牢への出入り口の錠前をしっかり閉める。ここを開けていて、また得体の知れないものが出てくるかも知れないと思うと、身の毛がよだつ。

 木箱がどうなったのか、記憶の限りでは、弥生が組み木細工のパズルを解いて中身を出してしまった所までは思い出せるが、そのあとのことは知らない。山にさえ入らねば、あの化け物にも弥生にも遭遇することはないかも知れない。

 先祖が作った、祠と木箱の装置は壊れたと思って間違いない。今後金蚕蠱による被害は出ないだろう。白が、『かんすさびを上手に出来た子』が次の金蚕蠱になると言っていたが、形代を弥生が持っていったのだから、金蚕蠱の身代わりは形代が担ったのだろう。多くのものを失ったけれど、何故か陽菜の心は晴れやかだった。

 とりあえず、今は安全なのだ。白が来てここにとどまることになっても、夜になったら家から一歩も出なければいい。ぐひん様が山からは下りて来ることはないだろう。ぐひん様は陽菜の先祖がちゃんと封じたのだから。木箱や甕の中にあった骨は金蚕蠱の為のものだから、ぐひん様には関係ない。ぐひん様のこと以外は山の民が来る前の状態に戻ったと思って間違いないかも知れない。変わり果てた弥生と母親は今も甕の底で蠢いているだろうが、木箱が壊れた今はあれらが出てくる心配もない。

 ちょっとだけ、何か忘れ物をしたときのようなそわそわする気持ちが心の片隅でくすぶっている。それを振り払い、陽菜は仏間から出て、寝室を抜け、縁側に立った。朝の日差しが眩しくて目を細める。突っかけを履いて、庭に出た。気持ちのいい陽気に釣られて、庭から山道に出る戸を開けて道に出た。強い風が山の上から駆け抜けるように道を下ってきた。

 陽菜はその風の生臭さに不安がよぎる。木々を揺さぶるような音が山の上から道を下って迫ってくるのが分かる。坂道に砂埃が立つのが見える。砂埃が不穏な音を立てて迫ってくるものの姿を浮き彫りにする。一抱えもある巨大な蛇のようなものがありえない速さで向かってくる。

 嘘だ、ぐひん様が山から下りてくるはずがない! と、陽菜が思う間もなく、ドンッという衝撃音とともに陽菜は吹き飛ばされた。

 ザザザザという荒々しい風の音が、あっという間に過ぎ去っていき、道には赤い鮮血が飛び散り、陽菜の体は道に転がった。陽菜の視界に自分の背中が映る。腰から下がない。驚くよりも疑問符が思考を覆い尽くす。

 どういうことだろう? なぜ、こんなことになったのだろう? だんだんと意識が暗転していく中で、陽菜は必死で考える。痛いはずなのに感覚が麻痺し、体が寒くて仕方なく、やたらと眠たくなってきた。

 ちゃんと甕を蔵のひな壇に置いたのに、ぐひん様は何故里に下りてきたのだ? 山からは下りられなかったのでは? まさか、祠や甕の枷がなくなったことで、あの言い伝えと同じ事が起きているのか?

 おそらく、甕による封印と木箱の装置が壊れたことと、祠と祭壇で繋いだバイパスが断たれてしまったことで、ぐひん様は昔のように自由になったのだ。

 ぐひん様は解き放たれて、今や、饗庭村を食らい尽くそうとしている。まさにご馳走を饗された庭でおいしいものを味わうように、表に出た村民を陽菜と同じように食いちぎり、貪るのだ。

 だとしたら、つくもも無事では済まないかも知れない。饗庭村に到着するまで時間はある。ここに着くまでに白に知らせねばならない。饗庭村のぐひん様は解き放たれた、と。

 陽菜はどこにあるかも分からないスマートフォンを探し、折れた腕を身動ぎさせる。猛烈な眠気にうつらうつらと目を閉じる。遠くから聞こえてくる悲鳴も、今は朝焼けに鳴く小鳥のさえずりのようにかすかで頼りなく、これから起こる惨劇を予感させた。

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