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御郷島へ渡る舟 第五章 御郷島

 山田はあれから眠れないまま、まんじりともせず朝を待った。

 何度も寝返りを打っていたが、夜が明けたのを見計らって布団から抜け出し、服に着替える。

 夢の中の綿子が生々しくて、吐き気がした。

 いくら何でも酷すぎると思う。あんな死に方をするなんて残酷だ。ぎりぎりまで意識を保ったまま、綿子の頭が潰れたのなら、どれほど苦しい思いをしたのだろう。

 夢の中できっと自分も鏡写しのように、綿子と一緒に頭が潰れたのだろう。

 綿子には暗に山田にも同じようになってほしいという願望があるのだろうか。だから、あんな残酷な夢を見せるのか。

 綿子は何度も叫んでいた。何を言っているか全く分からないけれど、その言葉は自分に宛てられたメッセージだ。

 口の中は黒いタールを流し込んだように真っ黒だったが、山田を見つめる瞳は美しかった。あの光が唯一の綿子に残された正気なのだとしたら、自殺した原因について教えてくれていたかもしれない。

 それが分かれば、この悪夢から綿子を連れ出せる。

 山田は枕元に置いたスマホの時刻を確認した。

 万智や爽果が起き出すのは七時を過ぎてからだろう。それまで村を散策しようと考え、白を起こさないようにそっと部屋を出た。

 外は快晴だった。太平洋の水平線に朱色の朝日が顔を覗かせている。太陽の光に藍色に染まった雲は空の端へ追いやられて、星々も輝きを失った。

 名も知らぬ鳥の鳴き声に混じって、小屋から出てきた鶏が元気よく鳴き出した。

 昨晩、鳴り響いていた鬼哭は何だったのだろう。遠雷とも違う不気味な音だった。

 坂道を降りていき、西浜の道に出ると、そのまま漁港に向かう。

 漁港には漁から戻ってきた漁師達が、トロ箱を船から降ろしている。トロ箱の中身は溢れんばかりの魚で一杯だった。

 猟師達がやけに元気がいい。大きな声で、楽しげに話をしている。

今日きゅ大漁たいじゅだ。トロ箱が足りんなお」

「おわたいが成功したやぃあげたから、大漁たいじゅになったんじゃないか」

「おわたいさまさまだな」

「吉宝さあの言ったとおりゆゆっになったな」

 漁師達が笑い合いながら、トロ箱の中身を仕分けする為に漁港に並べている。

 仕分けの女性達も楽しそうだ。

 その会話の中で、若い漁師の言葉に、山田は気を取られた。

「そういえば、変な魚すだまがいなかったか?」

「えぇー、サメみたいなヤツだったな」

おいがおが見ゆたとよ。人のがおじゃった」

冗談を言うながえおゆなまるでじき化け物じゃねか」

 山田はその若い漁師に近寄っていった。

「人面魚かぁ」

 いきなり背後から白の声がして、山田は思わず、背後を避けるように飛び退ずさった。

「び、びっくりした……、先生、起きてたんですか」

「うん。山田君が出たあとに」

 山田はきびすを返して、漁師の側に行った。先生も付いてくる。

「おはようございます!」

 できるだけ明るく、山田は声を掛けた。

 最初は不審者を見るような目つきをしていたが、漁師仲間の一人が、山田と白に向かって、思い出したように明るい笑顔を見せた。

「あー、西山のところの。おはようおはゆぅ

「西山のところにいるか。確か大学だいがっのせんせじゃろ?」

「そうですそうです」

 白が頷いた。

「顔が人間のサメの話、詳しく聞かせてください」

 若い漁師が仲間と顔を合わせた。

「よかよ。でもどん、そいつのせいでが開いた。今度見つけたらつしけたら銛で突こうと思っ」

「手足はなかったんですか? どうやって網を破ったんでしょう」

 白が不思議そうに訊ねた。

手足ごごはなかった。顔だけがおこチラリと見ゆた。どうやって破ったかは分かいらんけど、を食われちょった。まぁあらよう今日きゅ大漁たいじゅじゃっで、多少食われても食わたちぃと痛くないけど」

 方言の強い漁師の言葉を理解するのに四苦八苦している横で、白が楽しそうに話を聞いている。

「顔は男でしたか? 女でした?」

 漁師が腕を組んで考え込む。

「うーん、どっちじゃろ。色が白かったからおなごかもしれない……あ、でもどんそっちの若いのわけたくらいしろかだ」

 いきなり指差され、山田はぎょっとした。研究室に籠もって資料を漁るばかりで、日に焼けるようなこと自体なかった。反対に白はうっすらと日に焼けている。少なくとも山田より健康的に見えた。

「色白かぁ。男か女かは分からない、と……」

「これって、しょっちゅう目撃するものなんですか?」

 鹿児島県の磯姫という妖怪のことは聞いたことがあった。人面魚の存在は三宅村独自の現象ものなのか、それとも何かの生き物を人面魚と勘違いしているのか。

 磯姫だとしたら、見たら死んでしまうと言うし、結果、見たものはいないわけだから姿を認識することもできない。

 山田の質問に、漁師が困ったように苦笑いを浮かべる。

「うんにゃ、生まれこのかたこのっさあ、あんなものは見やったことがなかったな。怖いおじとゆより、もっと近くで見てみたい見やったいというか……、会えるならまた会いたい」

「会いたいって……。どこに行ったら見ることが出来ますか?」

「沖に行っていたみたら良いんじゃないか。おいが見たのもうんだったし。それじゃあ、おいたちゃは忙しいせしけいから」

 話に付き合ってくれた漁師達が、トロ箱を片づける作業に戻っていった。

「船を借りる?」

 山田は、楽しそうにしている白を一瞥する。多分、研究とは関係なくただ見

たいのだろう。

「チャーターするとなると、お金がかかりますけど、先生、手持ちで足りますか?」

 白が目を細めて、海の彼方を眺めた。

 ちょっと意地の悪い言い方になったと、後ろめたくなって謝ろうとしたとき、白が思案げに山田を見下ろした。

「豊玉姫かなぁ」

 日本神話で登場する、綿津見神の娘だ。

「それがどうかしたんですか?」

「豊玉姫の正体はサメなんだよ。大きなサメ。山田君は『見るなのタブー』を知ってる?」

 確か、妻が「部屋を覗かないでくださいね」と頼んだにもかかわらず、夫が覗き見たため、約束を破った夫の元から妻が去るという民話の類型じゃなかっただろうか。

「鶴女房とかですよね」

「そうそう。豊玉姫は出産をしている姿を見ないでくれと、夫——山幸彦に頼むんだけど、好奇心に負けた山幸彦が覗いちゃうんだ。するとそこには大きなサメになった豊玉姫がいた。山幸彦が約束を破ったことで、豊玉姫は海の彼方にある竜宮に帰っちゃうってヤツね」

「えーと、異類婚姻譚でしたっけ」

 専門分野ではないがある程度有名なので、学生時代に聞きかじっただけの知識で答えた。

「話の類型から言うと禁室型——『見るなのタブー』と説明したほうがわかりやすいかもね。豊玉姫はサメや龍の化身と言われてるんだよね。さっきの話で思い出した」

 一通り話すと満足したらしく、白が周囲を見て、首をかしげる。

「こんなに人がいたっけ?」

 気付けば、周囲に村民がガヤガヤと集まり始めていた。

「ちょっと聞いてきます」

 山田は白から離れ、村民のほうへ寄っていった。

 みんな、たくさん並べられたトロ箱と魚を眺めて、口々に何か言い合っている。

「こりゃ、大漁たいじゅだな」

「なぁ、昨日きぬのおわたいで西山の爽果が戻ってきたんだよなぁ?」

「おお、みかんを持っちょったって聞いたきたぞ」

「吉宝さあが大漁たいじゅだとかなんとか言ってたゆちょったし、本当じゃったんだな」

「おわたいが失敗しくじいしたと思ってたおもてたけど、うまくいっちょったんか」

 山田はおわたい振興会の熱意と、村民のおわたいに対する関心とに大きな隔たりを感じた。

 半世紀前の儀式が再現されたとて、過去に成功したことを一度も経験してなければ、その必要性など全く感じないだろう。

 高齢化で準限界集落に至った状況が今まで以上に悪化し、結果、村が消滅する。そんな未来が確実にやってくる。

 この村の住民の大半が過疎化に対する危機感がない。

 今回のおわたいで、果たして、失われつつある信仰をどこまで調査できるのだろう。

 山田は白が何を考えているのか知りたくて、振り返った。さっきまで山田の背後に立っていたはずの白の姿がなくなっていた。山田は辺りを見回して、慌てて背の高い鳥の巣頭の白を探す。

 中浜に入る道の端に、白が野田教授と立ち話をしているのを見つけた。

 山田はほっと胸をなで下ろす。うっかり物思いに耽ってしまった。

 小走りで、二人の元へ寄っていった。

「おはようございます、野田先生」

 野田教授に声を掛けると、野田が「おはよう」と答えた。

 野田教授の傍らに、スーツケースがある。近所を出歩く格好でもないので、もう帰ることにしたのだろうか。

「お帰りになるんですか?」

 山田が聞くと、野田教授はうんと頷く。

「目的は達成したからね。君達は帰らないのかね」

 白が漁港を振り返る。

「もう少し取材してからにします」

 今すぐ帰るのは、爽果の様子など気にかかることが多くて、気が進まない。それは白も同じかもしれない。

 ふと、野田教授が片手に大きな紙袋を持っていることに気付いた。

「それ、お土産ですか?」

 野田教授が紙袋の口を開いてみせる。

「研究用に、“橘の宝玉”をもらったんだ。本当なら、おわたいで女の子が持って帰った橘の実が欲しかったけど、成継さんにあれはもともと渡してあったものだと思うって言われてね」

 白がにこりと笑う。

一時いっときはどうなるかと思いましたね」

「波瀾万丈だったね。成継さんは成功したと喜んでいたけど」

「そうですかぁ。確かに爽果さんが帰ってこれたから、成功と言えば成功なんでしょうね」

 白がおわたいの儀式に関して、ちょっと引っかかる言い方をした。

「成功したんじゃないんですか?」

 山田を白が見下ろす。

「成功したんだろうねぇ。まぁ、様子見かなぁ」

 そのとき、山田達の真横に、軽トラックが停車した。

「野田せんせ! 送りおくいますよ」

 朔実が窓から顔を出した。

「成継はんから電話をもろたんで。バス停まで歩くのは大変わっぜえでしょうじゃんそ。駅まで送りおくいます」

 野田が笑顔になる。

「やぁ、助かります。じゃあ、また大学で」

 手を振る野田を乗せた軽トラックが、国道に向けて走り去った。

 白に向き直り、さっきの言葉の意味を問うた。

「先生、爽果さんが帰ってこれたって言ってましたけど……?」

「言った通りだよ。前も話したよね、濃い霧は神隠しに遭うことと関連性があるって。爽果さんが現世に戻れたのは奇跡だったかもしれない」

「本当に御郷島が存在すると言いたいんですか?」

「さぁ……、存在することを証明するのは難しいよ。爽果さんは帰ってこれたけど、それが御郷島が存在する証拠にはならない。橘の実を持ち帰ってきたけど、それも御郷島が存在したからとは言えない。当事者が存在したと言えばそうだし、存在しないと言えばそう」

「じゃあ、おわたいが成功したかどうかも証明できないと?」

「それも私には分からない。ただ、成功しようがしまいが、おわたいがなかったと言うことにはならないってだけ。だから、もう少し調査しないとね」

「でも、これ以上は口伝も文献もないから難しいんじゃ」

「まだ村民全員に聞き込んでないから、意識調査は必要だと思う。おわたいをどういうふうに考えているか。おわたいを経験したか、未経験か。おわたいが成功したと思うか、してないと思うか」

 村民全体がおわたいに対してどう考えているのか、調べるまでは帰られないと言うことなのだ。

「大雨でバタバタしてたけど、そろそろ村の人達の取材を始めないといけないね」

 そのつもりだったのか、白がボイスレコーダーなどが入っている、袈裟懸けしたショルダーバッグを叩いた。


 昼になっていったん西山の家に戻ると、万智が出迎えてくれた。

「どこ行ってたんですか」

 伝言も残さず出掛けてしまったせいで心配していたのか、万智が呆れた顔をした。

「取材をしに出掛けてました。ご心配かけたみたいで……」

「それはそうと、今から東浜の健次郎さんところで、宴会をするから来ないかって、朔実さんからお誘いの電話があったんですけど、行ってみます?」

 靴を脱ぐのをやめて、白が万智を見た。

「村の人が集まるんですか?」

「漁業組合の人は参加しますよ。と言ったって、みかん農家以外は漁師ですけどね」

 万智がからりと笑った。

「今日は大漁だったって聞いたし、そのお祝いじゃないかしら」

「大漁でお祝いですか?」

 山田は今朝の漁港の様子を思い出した。

「去年からずっと不漁で。数年に一度あるかないかの大漁だったんですって。景気づけじゃないかしら」

 だから、あんなに人が集まったのだろう、と山田は合点がいった。

「是非、参加します。おわたいの取材もしたいですし、懇親のきっかけになりますね」

 渡りに船だ、と白が喜んでいる。

「万智さん達も参加するんですか?」

 すると、万智が眉を下げて困ったように笑う。

「だめだめ、うちは喪に服してますから。それに朔実さんが誘ってるのは先生ですよ」

「あ、そうか。彼、漁業組合の人でしたね」

「迎えに来てもらいます?」

「いえ、東浜はさっき歩き回ったので、分かりますよ」

 午前中、中浜と東浜を一軒一軒、簡単な質問を訊ね回ってきたのだ。

「朔実さんも、先生がいろいろとおわたいについて聞いて回ってるって言ってましたよ」

 万智がクスクスと笑った。

「もう、先生のことを知らない人はいないんじゃないかしら」

 先生が釣られて笑う。

「今朝の漁師さんも私のこと知ってましたから」

「じゃあ、大漁だって騒ぎは先生もご存じだったんですか」

「ええ。たまたま漁港にいたので」

「部屋に行ったら先生達いなかったから、どこに行ったのかって、颯実そうまと話してたんですよ」

「それは、すみません」

 白が髪をくしゃっと掻いた。

「そういえば爽果さんは?」

「爽果ですか。爽果はおばあちゃんといっしょにいますよ」

「おわたいの成功が大漁を招いたなら、爽果さんこそ主役でもおかしくないですよ」

 すると、万智が困った顔をした。

「爽果はあの日からずっと塞ぎ込んでて……。やっぱりどこか具合が悪いんじゃないかしら」

「そうですか……」

 白が口を尖らせて何か考えていたが、「じゃあ、行ってきます」と、山田といっしょに東浜へ向かった。

 坂道を下り、漁港へ向かう途中、先ほど白が何を考えていたのか知りたくて訊ねた。

「さっき爽果さんのことを聞いてましたけど、何かあったんですか?」

 白が首を傾けて、困ったように唸った。

「うーん……特には」

 山田は、白の煮え切らない態度がどうにも気になった。

「でも、先生は前も爽果さんのことで、何か引っかかるような言い方してましたよね? それは一体どうしてですか?」

 どうしても知りたくて、ごねるような言い方になった。

「まだね、確信がないんだよね……だから説明できない」

 山田は白がもったいぶっているんじゃないかと疑った。

「でも、先生はいろいろと仮説を立ててたじゃないですか。そのどれかでおわたいのこととか、何かが分かったんじゃないんですか?」

 白がくしゃくしゃと髪を掻いて、唸る。

「まだ、説明できるまで至ってないんだよなぁ」

「そう言わないで、先生教えて下さいよ」

 白の言葉に、だんだんとモヤモヤとしてきた。

「とにかく今はまだ言えない。考えがまとまったら、君にはすぐに話すよ」

「やった!」とばかりに、山田は目立たないように小さくガッツポーズを取った。


 二人は東浜に入り、村の案内板を見つけて、健次郎の家を探した。地図の通りに道を辿ると、大きな平屋の家屋に行き着いた。

 ガヤガヤと人の話し声が外に漏れ聞こえてくる。

「ここで間違いなさそうですね」

 山田は玄関に立って表札を見た。どうやら健次郎は漁業組合の組合長のようだ。

 インターホンがないので、引き戸を開けて、直接、家人に呼びかける。

「すみませーん」

 すると、エプロンをした女性が出てきて、怪訝そうな顔をした。

 山田はすぐに朔実の名前を出した。

「お呼ばれしたつくもと山田です」

 すでに知らせてあったようで、女性の表情が和やかになった。

「はいはい、上がって。くっはそのままで良いから」

 そう言って、奥に向かって声を掛ける。

「お父ちゃーん、大学だいがっのせんせが来ましたきやったよ!」

「おー、入ってくださいいじゃったもんせ

 奥座敷のほうから男性の声が返ってきた。

 白は女性に軽く会釈すると、土間を上がり奥座敷に入っていった。山田も白に倣い、先生の後に付いていく。

 開け放たれたふすまから中を覗く。

 脚の低い長机がずらりと並べられて、その机を囲むように赤ら顔の六十代から七十代の組合員達が座って騒いでいた。すでに宴会は始まっているようだ。

こっちこっちこけこけ

 七十代くらいの男性が、山田達に向かって手招きをした。

 それを見て、山田は軽く頭を下げる。

 差し示された空いた座布団を勧められて、二人は腰を下ろした。

 座った途端、ビール瓶をグラスに傾けられて、断る間もなく、なみなみと注がれてしまった。

「お招きいただきありがとうございます」

 白が笑顔で謝辞を述べて、ビールが入ったグラスを手に取った。そうしている間に、山田のグラスにも同じようにビールが注がれる。

「あ、いや……僕は……」

 と、弱々しく断ろうとしたが、乾杯とグラスを目の前に持ってこられると、断りづらくなった。

「乾杯!」

 健次郎が機嫌良くグラスを差し出した。

 白がそれに答えて乾杯をした。こうなると山田もせざるを得ない。白と健次郎がビールを飲んでいる隣で、山田は泡を舐めるようにちびちびと口にした。苦い味が口に広がる。飲めないわけではなかったが、ビールは悪酔いするので苦手なのだ。

それでそいで、せんせ。調べは進んでいますか」

 すでに健次郎の耳に、午前中の白の取材のことが届いているようだった。

「おかげさまで。みなさんのご協力のおかげで、順調に取材ができてます」

「そうですか! なんでもないもけん聞いて下さい聞いたもはんか。協力しますよ」

 組合長の心証は悪くなさそうだ。

「今日の宴会は、大漁だったからと聞きましたけど」

 すると、健次郎の表情が見る間に明るくなった。

そうなんそなとですよ! こげなこちゃ数年ぶりですわ。なのでじゃんで、こうして組合員を労っているちゅうわけで」

 健次郎が豪快に笑った。

 出入り口近くに座っていた組合員が、健次郎に呼びかけた。

「おーい、吉宝さあとこの成継はんが来やったぞ」

ちょっといっとごめんなさいよ」

 健次郎がグラスを置いて、席を立って、成継を出迎えた。健次郎は成継に自分の横の席を勧める。

よく来たなゆきやったな。そこに座って下さいじゃったもんせ

「お相伴に預かりに参りました」と成継が軽口を叩いている。それを、「いやいやわいあんたが立役者じゃっでだから」と健次郎が言うのを聞いて、村の中で吉宝さんは一目置かれているんだな、と山田は思った。

 まだ四日しか経ってないのに、照男の死をみんな忘れてしまったかのようだ。

 表舞台で一番目立つ吉宝さあに注目が集まっていて、組合員達が「お疲れさまおだれさあでしたごあした」と声かけしている。

 成継が、笑顔で朔実に「立って立って」と手を振った。

「朔実さんのおかげですよ」

 朔実が照れ笑いをしながら、頭を下げる。

「おわたいが成功したやぃあげたとは、みなさあのおかげです」

 みんなが愉快そうに笑い、成継と朔実にビールを勧めた。

 この宴会はおわたいが成功して大漁になったから催されたんだ、と山田は納得した。

 宴会も一時間を過ぎる頃には、みんなすっかり酔っぱらい、顔を真っ赤にしてビールを飲んで、食べて、愉快そうに騒いでいる。

 白は隣に座った組合員と話し込んでいた。

 山田はビールに口は付けず、組合員の奥さん達が作った料理を、もそもそ食べながら、成継と健次郎の会話に耳を傾けていた。

「これから数年は豊漁ですよ」などと、成継が告げると、「おわたいでこんなことが起こるとは知れっなかった」と、全く信じてなかったのか健次郎が笑った。

「おわたいを毎年やれば、観光客も来るし、大漁が約束されますよ」

 成継も酒に酔ってきて安請け合いしている。

「そら楽しみだ」

 成継がむせたのか咳を始めた。

おやはら大丈夫ですかだいじょっや

「ちょっと……」

 健次郎が心配そうに成継を見ているが、成継の咳はどんどん酷くなっていく。

 成継だけではない。離れた席でビールを飲んでいた朔実も唸り声を上げて、畳に突っ伏した。

 それを見た健次郎が大声を上げた。

「おい、母ちゃん! 救急車! 誰か、ぐいま出せ!」

 山田は成継が苦しむ姿を目の当たりにして、体が硬直した。どうしたらいいか分からない。ただ、オロオロと見ているしかなかった。

 そのうち、成継の顔が腫れ上がってきて、目が飛び出した。もはや唸り声すら上げず、息ができないのか、ヒューヒューと喉を鳴らしていたが、やがて身動みじろぎ一つしなくなった。

 周囲は騒然となり、みんな、倒れた成継と朔実を取り囲んで、動揺している。

「やっぱり……」

「え?」

 白の言葉に、山田は振り返った。

 どっと、山田を押しのけて、担架を持って来た青年団員が成継と朔実を担架に乗せた。

 頭の形が変わってしまった二人を外に運び去り、やがて、車の発進する音が響き、成継と朔実は町の病院へ運ばれていった。

 あまりのことに山田は言葉をなくした。

 みんな、酔いが覚めて青い顔をしている。

なんかないか病気やんめか?」

移らないうつらつけんじゃろか」

 健次郎が呆然として立ち尽くす。

「一体、どうなっちょっんだ?」

急にはたっ苦しみだして苦しんにみがってびんた変なすだ《ぺ》になって……! |何ない病気やんめなんだ?」

 山田は人垣の後ろでその言葉を耳にして、朔実の言葉を思い出した。

『顔が変形するくらい膨れ上がってね』

 目の前で起こったことが脳裏に浮かび上がる。あれは膨れ上がるというレベルではない。完全に別の何かになっていた。理解不能な状況に山田は総毛立った。

 何か恐ろしいことが、三宅村で起きている。

 照男と草津の葬儀で、棺桶の窓が閉じられて開けられないようにしていたこと。顔が見えないように隠されていたこと。それらの理由が分かった。

 おそらく勘違いでなければ、成継と朔実も同じ死に方をしたのかもしれない。

「先生……」

 山田は後ろに立つ白を振り返った。

 白がまた何かを考えている。

 玄関にたかっている組合員達が、口々に言い合っている。

「振興会の連中ばかりばっかい死んだごねいやったぞ」

 それが、酷く重たく聞こえた。

「本当に振興会の人だけが亡くなったんでしょうか」

「そのようだね……」

 どこか冷静に白が答えた。

 気付くと、組合員達の視線が、山田達に向いている。猜疑心に満ちた目つきだ。

「先生、あんた達わいたっ、照男のとこにいたよな」

何かないか病気やんめにかかっているかもしれないから、ちょっといっと来て下さい来じゃったもんせ

「公民館に連れていこういかんう

そうだなじゃいにー。照男のとこも隔離しよう」

 組合員達は照男達——おわたい振興会だけでなく、滞在している山田達も何らかの感染症にかかっていると考えたようだ。

 しばらくして、外から車のエンジン音とバンと勢いよくドアが閉まるような音がした。健次郎が戻ってきたのだ。

 宴会をしていた座敷に爽果達母子おやこが入ってきた。

「先生!」

 万智が驚いて声を上げた。

「先生まで。ちょっと、健次郎さん、感染症とか何馬鹿なことを言ってるの!」

用心ゆじんだ。二、三日様子を見て見っちょんないもなかったら、出ても出てでんいいからよかんで

 万智がきっと健次郎を睨みつける。

「健次郎さん、感染症だと言うけど、父さん達はたくさんみんなと会ったり話したりしたじゃないか。それで移ってたら、今頃みんな発症してないとおかしいよ。それにばあちゃんを一人にできない。俺が世話しないと」

 颯実《そうま》も反論した。

 爽果は黙って、事の成り行きを見守っているように見える。

 颯実の意見に、健次郎も迷ったようで、苦い顔つきになる。

「とねはんか……。仕方ないつけん。颯実、おまえわいは西山ので隔離だ」

 健次郎が外から覗いている組合員に目で合図を送った。

 颯実が、組合員に連れられて、西山の家に戻っていった。

「こんなこと、吉宝さんも許さないですよ!」

「成継はん死んだごねいやった。朔実も死んだごねいやった。草野もおわたい振興会の連中はみんな死んだんだごねいやったんだ生きてるのはいちょっとはあんた達わいたっ母子おやこだけだ。そいでも病気やんめじゃねちゅうのか」

「それは……」

 おわたい振興会の人だけが死んでしまったことに、万智が絶句している。

「もうすぐ、成継はんと朔実が戻ってくるすだくっ。公民館に安置して、葬式おんぼ準備しこをする。あんた達わいたっはおとなしくしてろ」

 そう言うと、健次郎が出て行った。

 万智が呆然と出て行く健次郎の背を見ている。

 山田は白に顔を向けた。

「一体、ぼく達どうなるんですか」

 山田も万智と同じく不安に駆られた。

「うーん……」

 白が口を尖らせて考え込んだ。

 先ほどまでの宴会の沸き立った雰囲気が嘘のように、しんとしている。

 刻一刻と時間は過ぎていく。息苦しい座敷で、山田達は座ることも許されず、立ち尽くし、息を潜めていた。

 脇に立つ組合員が不安そうに喋っている。

「死んだのはおわたいに賛成したわろらばっかいじゃったな。おわたいもおいがじいちゃんから聞いたきたのと違った。本当はほんのこちゃ藁で作った舟に人形とみかん乗せるんじゃろ? なんもかんも違ってちごってじいちゃんがゆちょったよ」

「うちはおふくろが嫌な顔しちょった。バチが当たってさ。ほかいさあのお祀りも爽果だけでやったって聞いたきたぞ」

「え? 維継さんじゃねのか? 毎年めとし、維継さんがやっちょっただろ」

「成継さんは怠者さぼいごろじゃっで、そげな面倒臭いめんで仕事しごっはしたくなかったんじゃねか」

確かにつんとな。おわたい振興会なんちそっせなものを作って、吉宝さあのご神体を外に出して、勝手にいろいろ弄くり回したから、ほかい様が怒られたんじゃろ」

「おい、ちっとほかいさあを見てくる見っくっ。こいらが余計なこといしれんことをしちょっかもしれん」

「ああ、見てきてくれ」

 組合員の一人が小走りで外へ出て行った。

 それを山田は歯がゆい思いで見ていた。どこでボタンを掛け違えたのか。

 三宅村で、漁業に携わっている村民のほとんどが漁業組合の組合員だ。みかん農家の照男の考えなんて、微塵も理解できないのだろう。ましてや、村の産業の振興など、考えてもいなかったのではないか。そうでなかったら、これほど認識の違いが生まれるわけがない。多分、照男達が振興をいてしまったのだろう。

 それに、とりまとめ役のはずの成継が、互いの齟齬を埋める役目を果たしてなかったのかもしれない。

 多分、それが原因なのだ。

 それ以上に、おわたい振興会の人間だけ、何故変死したのかが分からない。感染症ではなくとも、何かがあったのだろう。でもそれをほかい様のせいと思いたくない。

 今は誤解が解けるまで、静観するしかないのだろうか。

大変わっぜえだ!」

 ほかい様を見てくると言って出掛けていた組合員が息せき切って駆け込んできた。

「なんだ、どげんした?」

 相当走ってきたのだろう。息を切らしながら、まくし立てる。

「ほかいさあが全部すっぺ倒されてて穴が掘られちょった。六つとも全部すっぺだ! こいらがほかいさあを荒らしたんだ!」

 身に覚えのない濡れ衣を、山田達になすりつけるように、指を差した。

「なんだって?」

 その場にいた組合員達がざわめきだした。

「どげんすっ。もしかしたらかった、振興会の連中が死んだのは、こいらがほかいさあを荒らしたせいじゃねか」

「だとしたら、死んだのはほかいさあの祟りたたいじゃねか」

「こりゃ連中だけじゃね、おい達もとばっちりを食うぞ」

 山田は会話を聞きながら、風向きがどんどん悪いほうに変わり始めたのを感じた。

「どげんすっ?」

 数人の組合員が面つき合わせてこそこそと話し出した。

「どもこもない。次に死ぬけしんのはおい達かもしれんだぞ?」

「健次郎を待っちょっ場合じゃね」

死ぬけしんならこいらが死ねばいい」

「そうだな。ほかいさあの歌の七番目。次の七番目を差し出せばよかんじゃねか」

「そしたら、そりゃ爽果しかいないじゃろ」

「こいらはどげんすっ?」

「爽果といっしょに公民館に隔離したらいい」

 山田は彼らの時代錯誤な会話に青ざめた。チラリと白や万智を横目で見る。白は難しい顔をして考え込んでいるが、万智は爽果を抱きしめて、不安そうに山田を見つめ返した。

「ほかいさあのことを知らせたら、きっと健次郎も同じおんなし事を言うはずだ」

ほかん連中は、海に投げて神さあにやったらいい」

「爽果だけじゃ、足らないかもしれん。六つも荒らされたんじゃっでな。数は足らないたっしらんが、こいで許してもらうしかないじゃろ」

「とねはんと颯実も放り込んだらいい。一人ひとい足りないたっしらんっしらんが、許してもらおう」

 いきなり、白が組合員達に声を掛けた。山田はそれを見て、背中に冷や汗がにじんだ。

「すみません。七番目というと、七体目のほかい様ということですか? 数え歌では六つしか歌詞がないんですけど、続きがあるんですか」

 突然話しかけてきた白を、組合員達が度肝を抜かれたように見つめた。話しかけられるなど思いも寄らなかったようだ。

 山田は白のあまりの空気の読まない様子に、肝が冷える。

 殺そうと話していた対象から話しかけられるとは思っていなかったのだろう、誰もが言葉を失っていたが、一人の組合員が答えた。

「歌が聞こえっくるじゃろ。六体のほかいさあが歌ってうとているんだ。波の音だちゅうことにしているこちしちょっが、波の音であげなものが聞こゆっわけがないじゃろ。数え歌はずっと昔から六番しかなかったが、きっと七人目が欲しんじゃねか? 大昔に女を海に流しちょったんじゃっで、きっとそいがほかい様になったんだって、漁師ふなとの間では当たい前の話になっちょっんだよ」

 それを他の組合員が止める。

「おい、余計ないしれんことを教えるいっかすっな」

「どうせ、死ぬんだからけしんじゃっでいいじゃねか」

 白がため息をついた。

「それが本当なら、漁師の朔実さんは秘密にしてたという事なんですね。まぁ、仕方ないか」

「仕方ないって……先生」

「たったの数日で心を開いてもらえるわけがないでしょう?」

「そうですけど……」

 山田も、その土地に伝わる忌み事や祟りなどの聞き取りが一番難航する。すぐに答えを知りたがるうちは土地に住む人々に打ち解けてもらえない。教授などは何年も掛けて訪問して、少しずつ教えてもらうのだ。

「でも、こんなふうに予期せず教えてもらえることもあるんだね」

 死ぬかもしれない瀬戸際に、白がのんきにのたまった。

「おまえら、黙ってろ!」

 怒鳴られて、山田達は口をつぐんだ。


 どのくらい経ったのだろうか。

 下手に動けないので、スマホも覗けない。座敷の縁側のふすまが閉め切られているので、外の様子も窺えない。

 今のところ暴力は受けてないが、白に話しかけると、組合員達を刺激することになる。

 寄り添い合う万智と爽果が可哀想になってくる。

 ほかい様を荒らしたのが誰なのか、どうしても爽果に疑いの目を持ってしまうが、あの石像を女性が一人で動かすのは無理だ。実際、白にはできなかった。だとしたら犯人は別にいるんじゃないだろうか。

 もし他に犯人がいたとして、何故ほかい様を倒して穴を掘ったのか訳が分からない。あそこに何か埋まっていたのだろうか。一体、何が埋まっていたというのだろう。

 悶々と考え込んでいると、外が騒がしくなった。

 車のエンジン音が聞こえてきた。

 玄関が開き、健次郎の声がする。

「おい、公民館に連れっいくぞ」

 それを合図に、組合員二人が山田達を挟んで立ち、歩くように背中を押した。

 玄関を出ていく山田達を、疑いと恐れの混じる顔で組合員達が見送った。

 数時間ぶりに外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。歩きながら、空を見上げると、まるで何事もないように、まばゆい星の輝きが川のように連なり天空を横切っている。

 月明かりだけで道がはっきりと見える。東浜から中浜の公民館まで、組合員に連れられて行った。

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