ぐひんの山 第九章 ぐひん様③
これらを読んで、陽菜は肩を落とした。断片的ではあるが、ぐひん様を封じる方法は書かれていたけれど、蔵の儀式については全く触れられてなかった。しかし、ここまで聞き取りが出来ている時点で、この論考の筆者はかなり桐野家と交流があったと言える。
しかもこれらの事柄は桐野家だけの独自の信仰であって、饗庭村の民間信仰とは全く違うとのことだった。唯一ぐひん様に関する情報として、『ぐひん様に喰われる』という原初の恐怖体験が村民たちの共有する言い伝えなのだ。その言い伝えがなおも健在であるのは、間接的ではあるが山の民の子孫の桐野家と饗庭村村民が共通の信仰対象を持っていたと言える。それがぐひん様なのだろう。
陽菜は部屋から出て、柳の息子に声を掛ける。
「すみません。この会報、コピーするかお借りしていいですか?」
荷造りの手を止めて柳の息子が顔を上げる。
「いいですよ。譲れませんが、返していただけるならどうぞ」
陽菜は会報を胸に抱き、「ありがとうございます!」と礼を言った。
「調べ物は見つかったんですか?」
「はい、知りたかったことは概ね書いてありました」
「そうですか」
柳の息子が背伸びをして、「お茶を煎れるのを忘れていた」と台所に行きかけたのを陽菜は止めると、もう帰ると告げた。すでに四時を回っている。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
陽菜は何度も頭を下げて礼を言った。
「いや、手助けできて良かった。でも、父の携帯はすぐ解約してしまうので、もしもまだご覧になりたい資料があったらこちらに電話を下さい」
そう言って、柳の息子は自分の携帯電話番号を書いたメモを渡してきた。
陽菜はそれを受け取り、頭を深々と下げて、柳の家をあとにした。
まさか、柳が亡くなっていたとは知らなかったので実感は湧かないが、そのおかげと言っては不謹慎だが、見たいと思っていた資料をすんなり見ることが出来て幸運だった。
それにしても桐野一族に福の神信仰があったとは知らなかった。福の神信仰は名前の通り七福神を信仰するものだ。場所や時代によって、七福神をカモフラージュにして土着信仰が形を変えたものもある。
祖父に特にそういったことは聞いたことがなかったので、現在は廃れてしまった信仰なのかも知れない。
町のスーパーに寄って、陽菜は頼まれた買い物を済ませると、饗庭村の実家に戻った。
帰り着いた頃には太陽はすっかり沈み、狭い山間の土地に寄り添い合う饗庭村の民家が頼りない灯火の明かりを漏らしている。今朝の雪はまだしっかり残っていて、車の轍が凍っている。ゆっくりと車を走らせ、陽菜は今日の収穫がぐひん様を封印するに足るものか吟味した。
もちろん無理なことのほうが多い。オオカミの首をはねて封じること自体が難しい。それに甕や木箱に首を入れて封をする、とあったが、甕に入っていたヒトの胴体部分の説明はどうするのだろう。
情報が増えれば増えるほど、陽菜は頭を抱えるハメになった。次々と開示されていく事象と事象の隙間を埋める欠片がないのだ。自分が用意した答えにあうように事実を切り貼りしてしまえば、信頼性が失われてしまう。インスピレーションで答えを見つけようとしては駄目なのだ。
けれど、実際はインスピレーションでもいいから、ぐひん様を封印する答えを見つけて対処する方法を探している。
実家の駐車場に車を停めて、後部座席に置いた買い物袋を取り出して、暗い玄関の引き戸を開けた。
「ただいま」
呼びかけると母親が出てきた。
「遅かったね」
「うん、予定外の用事が出来たから。お父さん、どうしてる?」
思っていた以上に時間がかかってしまったので、買い出しも遅れた。父親が不機嫌になってなかったらいいが、と心配になる。
「お父さんは今休憩中。何買ってきたの?」
「インスタントラーメンとかお湯入れて食べれるものとサンドイッチ。弁当のほうが良かった? あとはお茶のペットボトル」
陽菜は手に持った買い物袋を持ち上げて見せた。それをそのまま母親が受け取る。
「ご苦労様。それでいい論文は書けそう?」
陽菜はドキッとする。論文のためと言ってもいいけれど、実際は全く別のことに必要だったからだ。
「まあね」
それから、三人で簡単に食事を済ませると、陽菜は寒い仏間に引っ込み、電気ストーブを点けて寒さをしのいだ。ガスストーブを買って欲しいが、ガス管工事や一年間にどのくらい実家にいるかを考えると、贅沢は言えない。仕方なく、寝るつもりはないが布団を敷いて、その中に潜り込んだ。
傘を取った蛍光管が弱々しく部屋を照らしている下で、借りた郷土史研究会の会報を手に取ると、印刷された黒い字面を目で追って読みふけった。
ほとほとと軽くふすまを叩かれて、陽菜は現実に引き戻される。
「陽菜、お風呂沸いてるから入りなさい」
母親の声がして、ギシギシッという音をさせながら気配は遠ざかっていった。気がつけば、すでに夜の九時過ぎだった。風呂に入り部屋着に着替えたあと、エアコンで温かくなった居間に入る。父親がローカルテレビを見ていた。
「お父さん、明日は何時に蔵を開けるの」
テレビから目を離さずに、父親が答える。
「そうだなぁ、九時には始めとこうか」
二人が話していると、母親が三人分のお茶が入ったコップを持ってきた。
「わたしは町に出て弥生の目撃情報収集のチラシを撒いてくる」
母親は毎年チラシを撒いているが、依然として弥生の情報など入ってこなかった。父親は母親のその行為を自分への当てつけだと思っているのか、弥生に関して話題にもしない。
陽菜は都心の自宅にいるときのようなヒリヒリとした空気感に耐えきれず、仏間に戻った。廊下に出るとひんやりとした空気が流れる。陽菜が動く度に空気が動いて、冷たい手で肌をなぞられているような気がしてくる。
仏間に戻り、廊下と寒さがさほど変わらない部屋に敷いた羽毛布団に潜り込んだ。
陽菜が目を覚ますとまだ七時半だった。仏間の外から慌ただしく歩き回る音がする。そのうち、車のエンジン音が響き、遠ざかっていった。父親の車で母親が町に出掛けたのだと思った。
暖かな布団から起き上がり、カーディガンを羽織る。冬の実家は酷く寒いので靴下を二重履きして廊下に出ると、吐く息が白くて実家にいるのだと実感する。寒い寒いと独りごちながら、台所に行く。テーブルの上に、昨日買ってきたパンやカップ麺が置いてあった。
パンとインスタントコーヒーで腹を満たし、ぼんやりしているところに、父親が来た。挨拶もせず、父親がお湯を沸かしてカップ麺を作り、黙々と食べているのを眺めながら、陽菜は父親に訊ねる。
「蔵にめぼしいものがあると思う?」
父親はカップ麺を食べながら、首を横に振った。
「開かずの蔵みたいだったけど、探せば何かあるんじゃない?」
「じいさんが言うには、明治以降荷物の出し入れはほとんどなかったそうだ」
「そうなんだ」
父親は蔵に対してさほど興味があるというわけではなさそうだった。
「蔵の中を一度確認して整理するだけだ」
「ふーん……、お茶いる?」
陽菜はカップ麺を食べ終わった父親にペットボトルを手渡し、着替えるために仏間に戻った。
白い漆喰の外壁が所々剥がれており補修をしなければ、そこからどんどん老朽化が進んでいきそうな古い蔵の観音扉を開き、さらに引き戸を開けると、中からひんやりとした空気とともに埃の匂いが鼻先に当たった。
手袋をし、マスクを嵌めていたので、十四年間閉ざされたままだった蔵の埃の直撃を避けられた。扉から差し込む太陽の光が、暗闇を引き裂いて照らし出す。
陽菜が祖父とともに最後に見た蔵の中そのままだった。
父親がまず入って二階に続く階段を上がっていき、陽菜に「おまえは一階の荷物を確認しろ」と声を掛けてきたので、迷わず蔵の奥へと向かった。
記憶の通り、一番奥に明かり取りがあって、その真下にうっすら埃の溜まったひな壇が設えてあった。ひな壇には白い布が掛けられており、木箱とぬいぐるみが置いてあった。
木箱は美しい組み木細工が施されており、当時の自分が見惚れたのも無理はないと思えた。蓋らしき所もなく、木箱と言うより単なる正六面体にも見えた。一辺が四十センチもないくらいだろうか。
陽菜はその隣に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取った。おなかの糸が切れたのか、持った途端に裂けてしまい、木札が落ちた。カランと落ちた木札を拾うと、自分の名前が書いてあり、真っ二つに縦に折れていた。この札が今まで陽菜の身代わりをしていたのだろうか。
次に陽菜は木箱を手に取って振ってみると、ガタガタと中から音がした。横倒しにするとカタカタッと何かが落ちる感覚が伝わってきた。組み木細工だからどうにかすれば開くかもしれないといろいろと触ってみたが、どうすればいいかわからなくなって、結局開けられなかった。
蔵から出てみて、ひな壇の背後に何があるか確認した。やはり鉄塔がよく見える。古地図でもしやと思ったとおりだったので気持ちが舞い上がった。
あとはあの木箱の中身を調べれば、どうすれば甕にぐひん様を封じられるか推測できる。おそらく木箱と甕は対の存在なので、木箱の中身ももちろん重要だ。是が非でも木箱を大学に持ち帰り、中身を確かめたいと思った。
「陽菜、下の整理は出来たんか?」
蔵から父の呼ぶ声がして、陽菜は慌てて中に入り、階段から顔を覗かせる父親に、
「お父さん、あのひな壇のとこにある木箱、借りていい? 大学の研究に使いたいんだ。もちろん返すよ」
返すか返さないか、まだわからないが、とにかく借りられることを期待した。
「だめだ。元に戻しとけよ」
一にも二にもなく、陽菜の期待ははねのけられた。
「中にあるもの全部確認して、そのまま査定してもらうからな。動かすなよ」
父親にとって、この蔵の中にあるものに意味はないのだろう。
二階で荷物を動かす音がするので、仕方なく陽菜も行李やら大きな木箱を開けてみて中に何があるか確認した。虫に食われた着物や小物が納められていて、金になりそうなものはなかった。道具類を三十分もかからず見終えてしまった。江戸時代に建てられた蔵にしては、行李や調度類が少なすぎる。この蔵は調度類を本来は納めたり保管したりする為に建てたわけではなさそうだ。
木板の床に座り込み、周囲を見渡す。ふと、木目がずれている場所に気付いた。寄っていってよく見てみると、どうも床下収納か何かの蓋に見える。ずれている木目の隙間に指を引っかけ持ち上げた。
埃がブワッと舞い上がる。咳き込みながら、ぽっかりと空いた暗い穴の底を覗き込む。ほのかな光が底を照らし出した。
階段があったので、陽菜は用心しながら降りていく。まさか、蔵の下に部屋があるとは思わなかった。降り立つと部屋を二分するように天井から床までの格子があり、一目で座敷牢だとわかった。何のためにこんな場所に座敷牢を作ったのだろう。陽菜は慌てて階段を上がった。
二階にいる父親は、どうやら行李や木箱の中身まで出して調べている様子だった。
「お父さん!」
思わず父親を呼んだ。
「なんだ?」
呼ばれて下りてきた父親も、床下の部屋に驚いたようでまじまじと覗いている。
「これはなんだ?」
「わかんない。座敷牢?」
父親が腕を組んで考え込んでいる。
「わからん。……明日は大晦日だし、雪が降ってなかったら蔵の中のものを全部出そう。そんときも手伝ってくれ」
腰を伸ばしストレッチし、父親が陽菜を見た。
「わたしが全部出しておこうか。それより座敷牢に下りてみないの?」
「座敷牢なんて、見なくていい。それより、今から用事があるんだが、おまえの軽を借りていいか?」
時計を見ながら父親が言った。
陽菜は玄関に置いてある鍵を取りに行き、父親に渡した。
「町に何の用事があるの? ぶつけたら弁償してね」
「ぶつけんよ。古道具屋とか回って見積もりをお願いしてみるつもりだ。本当に荷物を出すの、おまえだけで出来るか?」
「出来るよ。中身出したほうがいい?」
「じゃあ、頼む」
「夕方には帰ってくる」
陽菜は細い農道を下っていく自分の車を見送った。
「さてと」
陽菜がようやく一人きりで蔵の中を物色できることに小躍りした。自分の荷物から懐中電灯を取りに母屋に戻った。
懐中電灯を持って外に出て空を見る。雪はまだ降りそうにない。風は凍えるように寒いが、蔵の中だとそれほど寒くない。床をギシギシと鳴らし、蓋を開け放したままの地下へ下りていった。
懐中電灯で照らすと、木の格子がある以外は何の変哲もない、六畳ほどの部屋だった。右の片隅にあるのはおそらく便所だろう。左側を懐中電灯で照らす。厚みのある布団が一組畳んで置いてある。窓がない代わりに、壁にいくつもろうそくか何かが付けられる出っ張りがあった。
一体ここに誰を監禁していたのだろう。地下にあるのだから人に見せたくないものだったかも知れない。見せたくないものとはなんだろう。妾? 精神障害者? そのほかいろいろとあるだろう。
この部屋はいつ頃まで使われていたのだろう。こんなものが存在するならば、他の蔵にも同じようなものがあってもおかしくない。見に行けたらいいが、中に入るの危険だ。おそらく床が崩れて落下するかも知れない。
妾を閉じ込めるにしてもこんな場所を使うだろうか。普通は離れなどに住まわせると思った。
それなら、次の候補は精神障害者だ。明治くらいに私宅監置と言って、精神障害者を隔離するための監禁部屋があったとされている。陽菜はそれらに詳しくないが、精神障害者を閉じ込めるほうがしっくりくる。でも私宅監置は政府が認可したものだ、いちいち隠す必要があったかどうか謎だ。
他にも可能性はある。でもリンチするには上等な布団が置いてある。妾、精神障害者や問題児を監禁する以外にこの部屋が使われる理由はなんだろう。
陽菜は格子戸を開けられるか試してみたが、鍵がかかっているのか開けられない。父親が置いておった鍵束から鍵を探したが、見つからなかった。
この部屋は一体いつ頃まで使われていたのだろうか……。
陽菜はこれ以上座敷牢にいても仕方ないと思い、階段を上がっていった。
蔵に残された木箱や行李の中身を出して、埃を取り並べる作業に移った。父親が用意したのか、新聞紙を広げて、蔵の二階に並べていった。古道具屋に引き取ってもらえそうなものはなさそうだ。
けれど、行李の奥にさほど傷んでいない漆器塗りの食器がお膳と一緒に一式出てきた。子供用なのか小さな漆器類だ。磨けば、それなりに値が付くかも知れない。その木箱には他に日本人形やおままごとの道具などの子供のおもちゃがいくつか入っていた。
いずれも桐野家の子供のおもちゃかも知れない。しかし、こんな所に隠すように収納してしまうだろうか。このことを祖父母は知っていたのか。知っていれば、見せてくれたかも知れないが、蔵の中には入ってはいけない、見てはいけないと教えていたからには、見られたくないものの一つなのだろう。父親も知らないのであれば、これらはずいぶん昔のものかも知れない。
陽菜は考え耽りながら、木製の箱の中のものを拭きながら並べていった。