ぐひんの山 第十一章 木箱
山を下りる途中、曇り空からちらほらと雪が降り始めた。父親と一緒に林道の坂道をとぼとぼと下る。寒さに鼻の頭がじんじんしてくる。父親も陽菜も無言のまま麓まで戻り、家に帰ってきた。
玄関に母親の靴があったので、今日は町に出掛けなかったようだ。雪が降り始めて、村を回って得られるわけがない弥生の目撃情報の聞き取りを諦めたのだろう。
雪に降られて白くなった上着をバサバサと振って雪を落とす。玄関の引き戸を閉めても、寒さがしんみりと肌に染みてくる。父親はさっさと居間へ行ってしまった。陽菜は温かい茶を飲みたくて台所へ入った。そこに母親がいて、ぼんやりとコーヒーを飲んでいる。
「ただいま」
「おかえり」
母親が機械的に挨拶を返した。弥生がいなくなって以来、母親はめったに笑わなくなった。いつもぼんやりと考え込むようになって、覇気がなくなった。かと思えば、弥生が絡むと感情の起伏が激しくなって興奮しやすくなった。だから、陽菜は母親に弥生の話をしなくなった。陽菜も悲しいのだ。弥生が自分の妹として生まれてきてくれて、本当に嬉しかった。我が儘を言われても許してしまうくらいかわいがっていた。陽菜の不注意で、母親と自分は弥生を失ってしまった。だから、母親のことを思うと心が苦しくなった。
弥生を取り戻せるならなんだってしてやろう。どうすればいいかわからないけれど、何故か、甕と木箱のバイパスを修復し、『かんすさび』をすれば上手くいく気がしてならなかった。
運よくバイパスを戻しても、『かんすさび』が出来る血縁の子供がいない。陽菜の親戚はみんな四散してしまって、今は生きているかすらわからない。
自分の名前を書いた木片を思い出す。あれをぬいぐるみに仕込んで、ぬいぐるみで『かんすさび』をおこなえば、少なくとも儀式は成立するかも知れない。何故なら、祖父がそうしたから。祖父は『かんすさび』から神降ろしのバイパスのことまで全て知っていたのだと思う
それにぐひん様は目が見えない神だ。相手がぬいぐるみでもわからない可能性がある。ほんの少しの可能性にかけてみることにした。
陽菜は白に電話をしてみた。
『桐野さん、明けましておめでとうございます』
いつもの白の声だ。なんだかほっとして、陽菜も同じ挨拶を返した。
陽菜には呪術の知識は皆無だが、白なら知っているかも知れない。まずはぬいぐるみの中に何が入っていたかを説明してから、アドバイスを聞くことにした。
「先輩、あの突然すみません。聞きたいことがあって、お電話しました」
白が何を嗅ぎ取ったのか、急に声が生き生きしてきた。
『何? 僕に答えられる内容なら何でも聞いてよ』
「わたし、今饗庭村の家にいるんですけど、蔵の整理のためにやっと中に入れたんです。そこでぬいぐるみを見つけて……、その人形のおなかの中からわたしの名前と年齢を書いた木片と髪が出てきたんです。木片は縦に真っ二つに割れてましたけど……」
しばらく無言だった白が、
『へぇ、それは興味深いね。そのぬいぐるみは君の身代わりをしたんだね』
「そうだと思います。で、そのぬいぐるみにもう一度わたしの身代わりになって欲しいんです」
『身代わりに?』
「はい。甕と木箱の機能を修復してバイパスをもう一度生き返らせて、『かんすさび』をしてみようかと思って」
すると、白が黙ってしまった。あまりに沈黙が長すぎて、陽菜は心配になってきた。
「先輩……?」
『あ、ああ。ぬいぐるみを身代わりにする方法はわからないけど、自分の分身は作れると思うよ』
「分身、ですか……。どうしたらいいんですか?」
『紙と鉛筆とハサミがあればすぐ作れるよ』
陽菜は急いで、白の言った道具を揃えた。
「準備できました!」
『じゃあ、まず紙を人型に切って。人型に見えたらいいから』
「……出来ました」
『じゃあ、その人型のおなかの部分に桐野君の名前をフルネームで書いて。年齢もね』
年齢はもちろん七歳と記載する。
「書きました」
『そしたら、息を吹きかけて』
「はい」
陽菜は、思い切り人型に息を吹きかけた。
『じゃあ、それをぬいぐるみに戻して。ぬいぐるみの腹を縫い付けたら完成』
「え? こんなに簡単でいいんですか?」
もっと難しいものを意識していただけに拍子抜けした。
『一応、夏越しの大祓で、厄除けに使う形代を作る方法なんだ』
「そうなんですか」
『とはいえ、それが桐野くんの身代わりをするかはわからないけど』
飄々と白が答えた。
陽菜は白の言うとおり、人型の紙をぬいぐるみの腹に入れた。
『あと、桐野くんの体の一部、髪とか爪とかをぬいぐるみに入れてくれたら完璧だよ』
「なんだか、呪いの人形を作ってる感じですね……」
『そうだよ。君の分身を作るってことは立派な呪術だし、身代わりに失敗したら君に跳ね返ってくる』
それでもする? と白に言われて、ほんの一瞬躊躇した。
「……やります! 成功させます」
『他に聞きたいことはあるかい?』
「ぐひん様を封じる方法がわかったんです。でもそのためには、オオカミと人間の子供が必要で……」
電話の向こうで含み笑いが聞こえてきた。
『君の身代わりがぬいぐるみでいいなら、オオカミも子供もぬいぐるみでもいいんじゃないかな』
思いがけない言葉に、陽菜は言葉がすぐには出なかった。
「い、いいんですか?」
『いいもなにも。身代わりや代替物を使った儀式は世界中にたくさんあるよ。でもそれをおこなうには労力が必要だけど』
「労力は……、頑張ってみます」
陽菜は方法が見つかったことよりも、白のいつもと変わらない声が聞けて安心した。それだけ饗庭村は息が詰まる場所だからだ。
『僕も饗庭村に行こうか』
「いいえ。大丈夫です」
こんな物騒な儀式に白を巻き込んではいけないと思った。失敗したら死ぬだけだ。もし失敗したとき、陽菜だけが死ねばいい。それでいいと思えた。
「それと、先輩。蔵に変な場所がありました。ひな壇の真下に座敷牢があるんです。これって何か意味があるんでしょうか」
『座敷牢? 桐野家の蔵全部にあるのかな。それはわかった?』
「いいえ。荒廃が進んじゃって、わたしだけじゃ中に入れる状態じゃなくて……。なんのための座敷牢だと思いますか?」
『座敷牢ってだけじゃわからないなぁ……。他にもわかったことはあった?』
陽菜は木箱の存在理由について思いついたことを話すことにした。
「甕がぐひん様を封印したなら、木箱はぐひん様の性質を反転させる存在が入っていると思うんです」
『反転?』
「じつは桐野一族のことを調べていて、偶然わかったんです。『山の民には福の神信仰が色濃く残っており、子供を使って、儀式をおこなっていた』って。山の民というのは桐野一族の先祖のことです。それでぐひん様を木箱に降ろしてかみすさびすることでその力が福に転じる。子供を使うのは神と交信しやすい年齢だからじゃないかと」
『福の神信仰と座敷牢で考えられるのは、今じゃ御法度だけど、明治時代に作られた制度で、『私宅監置』がある』
「私宅監置、ですか……。精神病患者や、一族間で隠しておきたい人物を、自宅内で監禁する……?」
『語弊があるけど、そういう使い方をした人間はいるだろうね。それと、昔、障害のある子供を福の神として祀る風習もあったから、ひな壇の真下に座敷牢があるのもしっくりくる』
「それじゃ、元々かんすさびをさせたのは、そういった子供達ってことですか?」
『ぐひん様を封じる以前から、木箱を使ってかんすさびがおこなわれていた、と考えてもおかしくない。ただ座敷牢に閉じ込めていた子供をかんすさびに使ったことまでは、断言できない、あくまで仮説だ』
陽菜はもう一度座敷牢に行こうと考えた。そこで新しい発見があったとしたら、木箱である装置を上手く活かせるかも知れない。
「ありがとうございました。なんとかやってみます」
そう言って陽菜は電話を切った。
大きく深呼吸して、ハサミで自分の髪を切ってぬいぐるみの腹に押し込んだあと、荷物からソーイングセットを取り出し、ぬいぐるみの腹を縫い合わせる。
オオカミが必要ならば、もう一つぬいぐるみが必要だろうか。財布とスマートフォン、車のキーを持って、立ち上がった。
突然、ふすまが開き、陽菜は驚いて声を上げた。
「ごめん、忙しかったか?」
ふすまが開いて、父親がそこに立っていた。
「全然、暇。何?」
「たばこを買ってくるけど、何か欲しいものはあるか?」
饗庭村にはコンビニがない。町へ行かないとスーパーすらない。しかも一番近い町に出るのに片道一時間ちょっとかかる。
「じゃあ、お菓子とジュースお願いします。あ、それと夕飯も」
「夕飯は何がいい?」
「何でもいいよ。あ、肉とか食べたい」
「焼き肉でもするのか?」
「とにかく肉がいるの。それと、お父さん、あの座敷牢を見てみたいから鍵を貸して」
「座敷牢の鍵? そんなもの知らないぞ。俺は蔵の鍵しか預かってない」
「じゃあ、蔵の鍵、貸してくれる?」
「蔵の鍵を? なんに使うんだ」
「蔵の調度類をもう少し出しておきたいから」
「そうか……、まぁ、いいけど。ちゃんと返せよ」
父親は不思議そうな表情を浮かべてふすまを閉めた。
父親が車に乗って出掛けたあと、陽菜は母親の様子を見に台所へ行った。母親はまだぼんやりと椅子に座って考え耽っていた。母親をしばらく眺めていたが、陽菜は台所を出て靴を履き、蔵を見に行った。
陽菜は腹を縫い付けたクマのぬいぐるみを持って、蔵の前に立った。なんとかして木箱の蓋を開け、甕と木箱の機能を復活させてバイパスを通し、饗庭村にぐひん様が降りてこないようにしなければならない。心の片隅に饗庭村のことなど構わずに、両親とともにここから出ていけばいい、とも思っている自分がいる。限界集落に残っているのは老い先短い老人たちばかりだ。なぜ危険を冒してまで饗庭村の為にぐひん様を封じようとしているのか。それも、全く助けもないままに白の助言を信じて。自分のしていることが正解かどうかもわからずに、ただ闇雲に知恵を振り絞って右往左往しているだけだ。
意を決して、陽菜は蔵に入った。暗い蔵の中に一条の光が明かり取りから差し込んでいる。その真下のひな壇に組み木細工の木箱が置いてある。ぎしぎしと床を軋ませながら、陽菜は木箱の前に立った。ひな壇にクマのぬいぐるみを置き、木箱を手に取る。中に何が入っているか予想もつかないけれど、これを開けて新しい装置に作り替えなければいけない。山の民だった先祖がやったことを再現しなければ元の装置に戻らないだろう。
腕の中の組み木細工の木箱の模様を見つめる。組み木の開け方がわからない。錠前を開けるほうが容易く感じた。どこを押して引き抜いて組み替えればいいのだろう。どのくらいの時間、木箱をいじっていたかわからないが、陽菜は頭を抱えて座り込んだ。一人で問題を解決させようとする困難さを痛いほど感じた。
差し込んでくる光がやがてオレンジ色に染まり始めた。そろそろ父親が戻ってくる時間だ。早く開けないと父親に見咎められる。父親にとって、祠も木箱も意味のないガラクタでしかない。これにどんな意味があって、どんなふうに現実に影響を及ぼしているか、知りもしない。
陽菜は痺れを切らしていっそのこと木箱を壊してしまおうかと考え始めた。木箱を持ち上げ、床に叩きつけようした時、床下から軋む音が聞こえてきた。
心臓が飛び跳ねんばかりに驚いて、陽菜は息を潜め、ゆっくりと木箱を持ち上げていた腕を下ろした。
きしっきしっ……。
床下でだれかが歩いている。そのうち足音はトントンという階段を上る音に変わった。
「お姉ちゃん……」
か細い子供の声が床下から聞こえてくる。その声はあまりにも聞き覚えがあって、心臓が止まりそうになった。床がぎぃぎぃと鳴り出した。床下から戸を開けようとしているのだ。けれど、地下から開けられないのか、いつまで経ってもぎぃぎぃときしむ音をさせている。
「お姉ちゃん……。開けて……」
紛れもなく妹の弥生の声だ。弥生が生きているのか、または弥生の魂がそこにいるのか、陽菜自身が病んでしまったのか。いつまで経っても床の戸がぎぃぎぃと軋む音を立てるので、恐怖よりも弥生に会いたい気持ちが勝った。
「弥生?」
陽菜は床にうずくまり、戸に耳を当てた。ぎいぎいと言う音から、弥生が小さな二つの手のひらで、押し開けようと頑張っている情景が頭に浮かぶ。弱々しい声と力なく押し開けようとして軋む音を聞いていると、いてもたってもいられず、木箱を置いて、床下に続く階段の戸を引っ張り開けた。
目の前に、いなくなったときのままの弥生がいた。
「お姉ちゃん、遊ぼ」
弥生が囁いた。澄んだ声が妹の口元からひっそりと漏れる。
「弥生?」
妹が床下から現れたことよりも、再会できた喜びに打ち震えた。
陽菜は妹の手を握って、階段から引っ張り上げた。
幻ではない、小さな子供の重さを両手が感じている。多少手が冷たいのは、ずいぶん長く地下にいたせいだろう。どのくらい地下にいたのか、それを問うよりも会えた喜びが大きくて、不自然な再会から目をそらした。
きっと、二年前、弥生は山ではなくこの蔵にいたのだ。そして、どうしてか座敷牢に閉じ込められて自力では出られなくなったのだ。午前中に座敷牢に入ったときに誰もいないと思ったけれど、実は座敷牢の中で妹は息を潜ませて隠れていたのだろう。
「お姉ちゃん、遊ぼう」
弥生が、抱きしめる陽菜の胸の中で無邪気に呟いた。
「たくさん遊ぼうね。おなか空いてない?」
「遊びたい。お姉ちゃん、遊ぼ」
受け答えがおかしいが、きっとそれは座敷牢に閉じ込められていたショックなのだと勝手に解釈した。
「お姉ちゃん、すごく探したんだよ。今までどこに行ってたの?」
陽菜の言葉に弥生はうつろな声で答える。
「男の子と遊んでた」
「どこのおうちの子?」
「お姉ちゃん、遊ぼうよ」
都合が悪くなると、同じ言葉を繰り返しているように見える。いや、都合が悪いのではなく、PTSD・心的外傷を負っているのかも知れない。弥生はそれほどまでに辛い思いをしたのだ。
陽菜は弥生の小さな体を力一杯抱きしめた。
「クマさん」
弥生がひな壇に置いたクマのぬいぐるみに気付いた。陽菜はためらいなくぬいぐるみを取って、妹に手渡した。陽菜の腕からするりと抜け出して、弥生が木箱を手に取り、木箱をぎゅっと抱きしめる。
「それはここに置いておこうね」
と声を掛けるが、弥生が木箱とぬいぐるみも手放そうとしない。
「弥生」
優しく声を掛けてそっと木箱から妹の手をはずそうとしたら、「うーっ」と唸って噛みつかれそうになった。
そんな妹の様子を見て、陽菜はたじろいだ。
「そっか……。木箱が気に入ったんだね」
これ以上、弥生を刺激したくなくて、陽菜は弥生を立たせると蔵から出た。
もっと現実的になろうと、陽菜は家の敷地内に不審者や見覚えのない車が止まっていないか、周りを見渡した。それらしき人影も車もない。村民のだれかが隠れている気配もしなかった。
「ねぇ、弥生。今まで何してたの? どこにいたの?」
「遊んでたよ」
「どこで?」
「お姉ちゃん、遊びたい」
弥生は、「遊びたい」と繰り返すだけで、陽菜の質問に答えようともしない。
「ねぇ、大人のひとといたの?」
「男の子といたよ」
弥生が口にするのは男の子と遊んでいたという言葉だけ。それ以外の単語は一言も喋ろうとしない。もしくは心に傷を負うほど、辛い目に遭ったのかも知れない。これ以上追求するのは酷だと陽菜は判断して弥生の手を引こうとしたが、強く嫌々と拒絶された。明日になったら弥生を病院に連れていってくまなく検査をしてもらおうと、陽菜は妹を見つめた。