なぼうの封土 プロローグ
山田は、腕時計をチラチラと見ながら、早足で歩いていた。
大学構内の並木道を、ざぁっと風が通り抜けていく。風に乗って黄色く色づいた銀杏の葉が舞い飛んでいる。
地面に落ちた黄色い銀杏の実を、山田の靴が踏み潰し、独特な匂いを放つ。
休み時間に入っているせいか、道を往く学生達が目立つ。学生が行き交う中、脇目も振らずに急ぐ山田を、何人かの学生が振り返る。
山田は気にも止めず、構内の奥に建つ旧学部棟へ向かっていた。
伝承や民間信仰などを教えている白准教授の民俗学研究室がある旧学部棟は、広い大学構内の端に建っている。正門からその旧学部棟までかなり距離があり、道のりをショートカットして、最近建てられた新旧の学部棟の間を抜けていく。
白に、来てくれと言われたアルバイトの時間に間に合いそうにない。初日から遅刻するわけにはいかない。荷物でふくれたメッセンジャーバッグをゆさゆさと揺らして、敷石が組まれた道を外れ、アスファルトを踏む。
急ぐ羽目になった原因がバッグの中にある。バッグには姉の卒業アルバムが突っ込まれている。母親が送ってくれた卒業アルバムの宅配便が、指定時間通りに届かなかったせいだ。
受け取ってすぐに、封も切らず、持ったまま家を出たのだ。
新旧の学部棟をいくつも走り抜けていくうちに、学生の数が少なくなっていく。
山田は、一際そびえる新学部棟の脇を通り過ぎようとした。
行く手に人が立っていた。紺色のセーラー服。私服姿の大学生ばかりのキャンパスに、セーラー服は目立つ。今はオープンキャンパスの季節でもない。
山田は嫌な予感がした。
けれど勘違いかもしれない。
瞬きをすると、嫌な予感が迫ってくるように感じて、無意識に目を見張った。
その躊躇した瞬間に、頭部が潰れて割れたザクロのようになった少女の顔が、ぐっと目の前に迫った。
「ひっ」
息を飲んだ途端、足がもつれて思い切り背後に転倒した。したたかに尾てい骨を打って、山田は痛みに呻いた。
ドーンッ!
いきなり目の前で生じた鈍重な音に、うめき声がかき消される。新学部棟の上から大きな塊が鼻先に落ちてきて、音とともに破裂した。
生温かな液体が、辺りに雨のように降り注いだ。
尻餅をついた山田の体中に、赤い斑点が勢いよく飛び散る。
アスファルトにめり込むように潰れた、顔の左半分が山田を見ている。うつろな瞳は瞼からはみ出して、血の涙を流していた。
生臭い血の臭いに、山田は思わず吐いた。太腿に汚物がぶちまけられて、ジーンズに染みてくる。
音を聞きつけた学生達が集まってきて、悲鳴が上がった。
騒然としている中、山田は腰を抜かしたまま、酸鼻極まりない光景に、何度も嘔吐いた。
腰を抜かした拍子に、口の開いたメッセンジャーバッグから、小物や封筒が地面に落ちた。それらも地面に広がる血にまみれて赤く染まっていく。
手足が地面から生えているようにも見える無惨な姿から、山田は目を離せずにいた。飛び降りただろう新学部棟を見上げることもままならない。
しかも、地面に広がる血溜まりを踏む、一点の汚れもないソックスに黒のローファーを履いた白い足が佇んでいる。
目の前に倒れる人間だった物を見下ろす、頭が半分潰れた少女を、山田は見上げた。
「綿ちゃん」
名前を呼ばれたことに気付いたのか、綿子の顔が山田に向けられた。その唇が横に伸び、不気味な笑みを浮かべる。瞬きする間もなく綿子は姿を消した。
騒いでいる学生の間から、警備員が駆け込んできて、山田に肩を貸して立たせた。血だらけの荷物を拾い集めて、山田に渡してくれた。
よろめく山田に、警備員がいろいろと話しかけてくるが、その言葉を日本語として認識できず、呆然としていた。
そのうち、警察官と覚しき男性から声を掛けられて、状況の説明を促された。とにかく、突然人が眼の前に落ちてきたとしか言いようがなく、正直に何度もそのことだけを説明した。
まさか、自殺した双子の姉、綿子が突然現れて、驚いた途端に人が落ちてきたとは言えない。
綿子が、幽霊なのか、幻覚なのか、山田には分からない。ただ、自殺した双子の姉が山田には見える。中学生の時から、綿子は度々無惨な姿で現れては、山田を脅かす。
最初は他人にそのことを訴えたけれど、誰も信じなかった。
山田も、姉がどういう風に自殺してしまったのか知らない。どんな理由で死んだのかも。死んだ際の姿も見たことがなかった。
ようやく、警察官から解放された山田は、体を洗う為に目の前の新学部棟のトイレに入った。顔の血飛沫を洗い落とし、汚物で汚れたジーンズを軽く洗う。濡れたジーンズを履いてから、改めて鏡に映った顔を覗いてみた。
度の強い眼鏡がないと表情も見えない。眼鏡に飛び散る赤い液体をせっけんで洗い流してかけ直す。
血の気が引いた青い顔が自分を見つめていた。
綿子の半分潰れ脳漿が垂れた顔に、いつまでたっても慣れない。だから、目の前に落ちてきた人の姿に慣れるわけがない。スカートを履いていたから、辛うじて女性だと分かったくらいだ。
警察官が言うには、女性はおそらく新学部棟の非常階段から飛び降りたのだろう。
たまたま通りすがった山田の目の前に、彼女は落ちてきたのだ。山田の真上に落ちていたら、巻き添えを食うところだったと告げられた。
助かって、ほっとするけれど、綿子と同じように飛び降りた女性のことを考えると、胸が痛む。
彼女の身に何があったのだろうと、考えても無駄なことが頭を掠めた。
ふと我に返って、ようやく山田は腕時計で時刻を確認した。
さっと血の気が引く。
アルバイト初日から、約束の時間を大幅に遅刻していた。白の不興を買って、せっかく得た高額バイトをやめさせられたら元も子もない。
トイレから出ると、民俗学研究室のある旧学部棟へ、慌てて走って行った。