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ぐひんの山 第三章 甕③

「誰も入らないから山菜が取り放題だっていつも言ってたから、母さん、一人で入ったらいけないってのを忘れるか、信じてなかったんじゃないかな……」

 落ち込んでいる聡に陽菜が言う。

「うちの弥生も一人で山に入ったみたいなの」

「え? 陽菜ちゃんとこも?」

「さっき警察呼んだ。聡くんは警察に電話した?」

 聡が慌ててスマホをポケットから取り出して電話を掛けようとしたとき、県道の路肩に停まったパトカーから二人の警察官が降りてきた。

 いち早く警察官に気付いた村民が道を譲り、人集りの輪が解ける。それを見た聡が人の間を潜り抜けて年配の警察官のほうへ行ってしまった。その後ろを陽菜も追う。

 年配の警察官がケンカを中断した二人に事情を聞いているが、聡の祖父は興奮が冷めやらないようで、警察官に食ってかかっている。

「じいちゃん!」

 聡が祖父に駆け寄って、なだめ始めた。

「ちょっと興奮しないで」

 と言う警察官に、陽菜が口を挟み今までのことを説明した。

「では、いなくなる直前までお父様と一緒だったわけですね」

 父親が困惑した表情を浮かべる。

「直前というか……。てっきり家でおとなしく遊んでいると思っていたんです」

 警察官が父親の話をメモに取り、今度は陽菜に訊ねる。

「あなたは友人と一緒に鉄塔がある場所にいたと?」

「そうです」

 聡が、メモを取る警察官に焦るように言いつのった。

「うちの母さんも山に入ったきり戻ってこないんです。警察に電話しようとしていたところだったんです」

「はぁ。一応、お尋ねしますが、お母様は別の山に入った可能性はないですか? もしくは家庭内で何か悩み事とか」

 すると横で黙って聞いていた聡の祖父が怒鳴った。

「はぁ? なんゆうとるんか! 悩みとかあるわけなかろうもん。他の山に入ったなら、暗くなる前に帰ってきとるが」

 興奮して顔を真っ赤にした祖父を聡がなだめる。

「よしなよ、じいちゃん」

 そこへ、村民の一人が駆けつけた。

「おまわりさん、やっぱり平良須山におるんやないやろか」

 そう言って、女物のつばの広い農作業用の帽子を見せた。

「これは?」

「杉林の斜面に落ちとった」

 聡の顔色が青くなっていく。

「母さんはいつ頃出掛けたの」

「昼過ぎやったか。確か一時頃やったぞ」

 と、聡の祖父が口を挟んだ。

 警察官が陽菜の父親に顔を向け、

「桐野さん、ちょっと署でもう少し詳しくお話を伺えますか」

 後ろに控えていた若い警察官に促されるまま、父親はパトカーに乗り込んだ。しばらくして若い警察官が戻ってきて、耳打ちする。

 ひそひそと何やら話していたが、やがて若い警察官は父親を連れてパトカーで、町に戻っていった。

「あの……、うちの父だけどうして警察署に連れていかれたんですか」

 陽菜が解せない顔つきで警察官に訊ねた。

「詳しく話を聞かせてもらうので」

 としか言ってくれなかった。

 空が薄暗くかき曇り、ポツポツと雨が降り始め、そのうち大粒の雨に変わった。

 慌ててその場にいるもの達は、高倉家に避難した。

 聡と陽菜は並んでひさしに逃げ込む。

 聡が暗い表情で陽菜に呟く。

「首つり鉄塔に行ったなら、僕達と会うはずだよな」

 先ほどからあの鉄塔のことを、首つり鉄塔と呼ぶのはどうしてなのか、素朴な疑問を聡にぶつけてみた。

「ああ、あの鉄塔が出来てから、やたら村外の人たちが来て自殺するから、首つり鉄塔って名前がついちゃったんだ。陽菜にとって気持ちいい話じゃないから伝えなかったんだ。陽菜のばあちゃんのこと思い出すだろうし……」

 聡が歯切れの悪い答えを返した。

「あの鉄塔、あれから自殺の名所になったの?」

「心霊スポットだって話を中学の頃聞いたことがあるよ」

「そうなんだ……」

 当時、父親が何故平良須山の土地を電力会社に貸したのか、それだけでなく鉄塔が立った理由も幼すぎてわからなかった。今思えば、父親は独立して起業するのに金が必要だったのだ。だから相続した山を好きなようにした。祖父が亡くなったこと、自分の息子が祠を潰したこと、そのせいで祖母は一気に認知症が進んでしまったのだろう。だから祖母は鉄塔で……、首を吊ったのか。

 陽菜は忘れかけていた最悪の記憶を思い出し、ぶるっと震え、汗ばむ暑さなのに寒気を覚えた。

「ごめん……、嫌な思いをさせるつもりはなかったんだ」

 聡の言葉に陽菜は顔を上げ、無理矢理笑顔を作る。

「そんなことないよ。平気。そんなことより、聡くんだって大変なのに……」

「気にしないで。村の人達も探してくれるみたいだし、陽菜ちゃんも無理しないで」

 軒先に出てきた村の男達が話し合っている。

「とりあえず、日が沈む前に鉄塔ば行こう。暗くなったら、捜索できんけ」

 男達は捜索する準備を整えるために、ようやく雨脚が弱くなってから一旦解散した。


「おーい、おーい、弥生ちゃーん。弘子さーん」

 村民達が、大声で姿を消した二人の名を呼びながら、暮れなずむ中、懐中電灯を持って平良須山の林道を、鉄塔目指して登っていく。彼らの後ろについて、陽菜も暗くて足場の悪い道を進んだ。やがて林道の途中で道が分かれ、鉄塔に続く道へ曲がる。

 夕闇に黒々とした鉄塔が巨人のようにそそり立つ空き地にたどり着く。空き地の湿った黒土から立ち上る腐葉土の匂いが鼻についた。

 村民達が何度も呼ばわりながら崖下を懐中電灯で照らしていく。円形の光が照らし出す先には、杉の枝々と伐採されず伸び放題の名も知れぬ常緑樹の他に何も見えない。人が落ちたような形跡や人気も無く、反対に虫の声がうるさいくらいだった。陽菜も一緒に弥生の名前を森の奥へ続く闇に呼びかけていたが、その甲斐もなくすっかり日も暮れてしまった。

 自分が弥生に一人で山に行くなと言わなかったことがずっと頭の中を占めていて、陽菜は必死で大きな声を上げていた。このまま見つからなかったら、弥生になんと言って謝ればいいかわからない。その謝罪すら弥生に届けることができない。

「弥生ー!」

 弥生と声がかれるほどの声で叫んでいると、年配の村民の一人に声を掛けられた。

「陽菜ちゃん、もう帰り。暗くなったし、俺らもいったん帰るけ」

「帰るんですか」

 思わず険のある言い方をしてしまった。

「明日、日が出たらまた捜索するけ、心配やろうけど、今は家に帰り」

 強く言い聞かされて、陽菜は渋々後ろ髪引かれながら、帰ることにした他の村民と一緒にとぼとぼと山を下りた。


 家に戻るとふすまは外されたまま、縁側の掃き出し窓も開け放したままだった。雨もいつの間にか晴れて、雲間から月が顔を出している。庭を月明かりが照らし出して、余計に影を濃く見せる。電灯も消えていて、家の中までは月の光も届かず、ぼってりとした質感のある闇がへばりついているように見えた。家に入らずしばらく縁側に座って庭を見つめていた。そうしていると、だんだんと心も闇に染まっていって、何もできない自分を責めてしまう。

 どのくらい時間が過ぎたかわからないが、陽菜はこのままずっと縁側に座っていても仕方がないと思い、立ち上がると靴を脱いで家に上がり、外されたふすまを嵌めていった。

 のろのろと台所に移動し、買ってあった冷えたペットボトルを冷蔵庫から出したところで、ぼうっと突っ立っていた。冷蔵庫から明るい光が漏れる。冷気が床に降りて陽菜の足下を舐めていく。その冷気がまるで生き物のように陽菜のくるぶしに絡まってわだかまっている。

 やがて冷蔵庫の扉を閉めて、足下の冷気を蹴散らかし、電灯を点けた。ぱっと部屋中が電灯の明かりに照らされる。重苦しい静けさをかき乱すように虫の音が小さく聞こえてくる。

 泣きたい気分だったけれど、陽菜は深く息を吸い、涙をせき止める。自責の念で泣いても弥生が戻ってくるわけではない。後悔に苛まれたとしても許されるわけではない。辛いのは自分ではない、いまだ見つからず山の中で泣いている弥生なのだ。

 陽菜は食卓の椅子に座り、ひたすら夜が明けるのを待つことにした。

 どのくらい時間が過ぎたのだろう。家の前の砂利道をタイヤが踏む音で我に返った。敷地内の駐車場に車は停まり、敷き詰められた砂利を踏む足音が玄関に近づいてくる。すぐに玄関の引き戸が開く音が聞こえてきた。

「陽菜」

 母親の声で名前を呼ばれて、急いで玄関に向かう。玄関に着の身着のままのていの母親が、心配で血の気が引いた白い顔をして立っていた。

「お母さん」

 なんと言っていいか、陽菜は戸惑い口ごもった。

「それで、弥生は見つかったの」

 玄関に突っ立ったまま家に上がる気もないのか、矢継ぎ早に続ける。

「捜索隊は弥生のこと、見つけたの? 弥生は無事なの?」

 陽菜は沈痛な顔つきの母親に申し訳なく思いながら告げる。

「まだ。明日また探すんだって」

「なんで? なんで探してくれないのよ。弥生を探してくれるように直接言ってくる」

 きびすを返して、母親は玄関を出て行った。

「待って、お母さん!」

 慌てて陽菜は母親を追った。

 二人でぬかるむ土が剥き出しの坂道を下っていき、県道に入ると村の寄り合い所を目指した。寝静まっているのかほとんどの家の電気が消えている。遠くに点にしか見えない小さな明かりが灯(とも)っている。二人はあぜ道で鳴く虫と蛙の声を振り切るように、寄り合い所のぽつんと点った明かりに向かった。

 寄り合い所には数人の村民がいて、乏しい明かりの下で村の地図を広げて、ぼそぼそと話し合いをしている。

「すみません」

 母親が声を掛けると、村民が一斉に母親のほうに顔を向けた。初めは母親が誰なのかわからなかったようだったが、思い出した村民が口を開く。

「桐野の奥さん」

「弥生を探してください。どうして、捜索をやめたんですか。早く弥生を見つけてください」

 母親がしつこくお願いするのに対して、村民が一様に困惑した顔つきになった。

「明日の朝一番で捜索ばするけん、今は帰ってくれんか」

「どうしてですか。ライト点ければ探せるでしょう。警察はどこにいるの。弥生はまだ七歳なのよ。小さい子が一人で山の中で迷ってるんですよ?」

「まぁまぁ、桐野の奥さん。探さんちゆうてないけん。山は危険やけ、日が出たらすぐ探すけ、安心しぃ」

「崖から落ちたらどうするんですか。朝になったらなんて悠長なこと言ってたら、弥生が死んでしまうかもしれないんですよ? そしたらどうするんですか?」

 陽菜は、興奮してまくしたてる母親の腕を取ってなだめる。

「お母さん、夜に捜索は無理だよ。明日朝一番に一緒に探そう」

「そうしてくれんか。今はどうにもできんし、あんたも明日の朝来て一緒に探せばいい」

 と、他の村民が口をそろえて言った。

「ほら、帰って」

 冷たくあしらわれて、母親が目を吊り上げて何か言おうと口を開いた。

「お母さん! いいから帰ろう。ね? 今は無理だから」

「陽菜! あんたまでそんな冷たいこと言うの? 弥生が心配じゃないの? お姉ちゃんじゃないの。弥生が可愛くないの?」

 母親の怒りの矛先が陽菜に向いた。

「お母さん……」

 陽菜も言い返したかったが、怒る母親の気持ちも理解できた。ただ、今ここで村民に怒りをぶつけても何もならないし、弥生が見つかるわけではない。朝を待って探すほうが賢明だと思った。

「ね、帰ろう。明日来ようよ。お母さん……」

 母親は、わっと声を上げて泣きだし、うずくまった。陽菜は母親の腕を取って立たせると、村民達に頭を下げながら家に戻った。


 母親が饗庭村での暮らしに耐えきれなくなったのは、陽菜が九歳の時だった。八歳になったばかりの時に祖父が末期がんで亡くなり、一年も経たずして、あんなにしゃんとしていた祖母が認知症になった。

 父親は祖父から相続した平良須山の一部を電力会社に貸し、そこには大きな鉄塔が立った。何もかもがスムースに執り行われたので、おそらく父親は祖父が死ぬのを待っていたのだ、と陽菜は大きくなってから鉄塔の謎に着地点を見つけた。それが全ての……、桐野家の不幸の始まりだと陽菜は思っている。

 父親は金欲しさに祖母が大事にしてお祀りしている祠を潰すことになんら躊躇うことなどなかった。家と土地だけは祖母が決して手放さなかったので今も残っているが、もしも祖母が抵抗しなかったら、饗庭村にこの家が今もあったとは思えない。

 祖父母は饗庭村出身で、平良須山の山裾にはかつて桐野一族の家々があった。今は陽菜の一家のみ残っているけれど、まだ一族の一部が饗庭村に残っていた頃は、桐野家も豊かで、村での発言権も強かったらしい。しかし、それも父親の代で終わってしまった。村外から嫁いできた母親と長く村外で生活していた父親に対して、村民は祖父母と同じように付き合ってくれなかったのだ。

 よそ者だというレッテルを貼られたが、それを祖父母がフォローしてくれていたから、両親は村に少しずつ馴染むことができた。でも、結局よそ者として扱われていたことは変わらない。

 先ほどの母親の言動は、昔不等に扱われたことへの怒りだったのかもしれない。

 認知症の祖母が徘徊する度に、村民は親身になって探してくれていた。でもそれは祖母が村の人間だったからだ。何度も祖母がいなくなる度に母親は神経をすり減らしながら、村民に助けを求めた。

 祖母の奇行はますます酷くなっていき、それなのに祖母を病院や施設に預けるという考えを、父親が良しとしなかったため、家庭内の全てを背負わされた母親は、おそらく介護鬱だったように思う。

 陽菜は泣きながら手を引かれる母親を振り返る。あの頃も今と同じだ。辛いと訴えながら祖母の世話をする母親の目をすり抜けて、また祖母がいなくなった。

 弥生がいなくなった時のような夕暮れ時で、村民全員で探し回ったが祖母は見つからず、平良須山で迷っているのではないかと捜索を山に移した。

 まさか、と村民達は言い合いながら、鉄塔の立つ空き地に行ってみると、巨大な鉄塔の脚組に祖母がぶら下がっていた。

 これは姑いびりの末の自殺なのだ、とまことしやかに村中で噂され始め、身の覚えのないことまで言い及び、やがて桐野家、特に母親を対象に村八分にされた。

 祖母の自殺だけが村八分になった要因ではない。あの鉄塔に対する村民の反感と不満が積もりに積もった結果でもあった。村民達は平良須山を恐れていた。その平良須山をそっとしておくことを村民は望んでいたのだろう。しかし、父親は平良須山を恐れる村民の心を無視したのだ。

 だからこそ両親は饗庭村では異質な存在だった。陽菜は祖父母が生きていた頃優しくしてくれた近所のおじさんやおばさんから無視されるようになったことを訝しく思っていた。ただ、学校にいる間は幼馴染み達に囲まれていたので、違和感を感じていても嫌われているとは思いもしてなかった。

 家に着き、引き戸を開いて陽菜は母親を家の中まで引っ張った。

 母親の涙はあの頃、村民に見せることができなかった憤りでもあるのだろう。饗庭村の狭いコミュニティからつまはじきにされて、行き場を失った絶望感が母親の心を蝕んでいった。

 その結果、桐野家は半ば逃げるような形で、饗庭村を引っ越したのだった。

 玄関でうずくまる母親を引っ張って、客間に連れていき、横になれるように寝床を整えた。

「お母さん、明日朝一番に寄り合い所に行こうね」

 陽菜の呼びかけも無視して、横になりながら母親は嗚咽する。そんな母親の肩を優しく叩き、陽菜は部屋を出た。

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あおさとる🐱藍上央理🐱大野ちた
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