とがはらみ ーかりはらの贄巫女ー シーン3③
屋敷に着いてから、一夜に叶はみつちさんに答えてしまったことを改めて告げた。それに教えていない叶の電話番号を何故知っていたのだろう。
「なんで、私の電話番号を知ってたんですか」
「君のお母さんに聞いたんだよ。なんだか嫌な予感がしたから」
その予感は的中していた。
「みつちさんはしつこいって言っただろう? それに美千代さんでは祓いきれない。だけど、今は美千代さんしかいない。君がおみず沼に引き寄せられないように、お祓いの準備が必要だ。たとえ形だけになったとしても、応急処置にはなるだろう」
祓いもできない美千代に任せるのか。しかも、美千代は体を壊している。そんな状態で本当にみつちさんをお祓いできるのか疑問だった。
みつちさんは、祈祷場でもある神域に現れる。おそらくそこがみつちさんの行動範囲なのだ。狩り場として、獲物を待ち構えている。一度マーキングされると、みつちさんはいつまでもつきまとう。まさに壊れた道祖神から抜け出したみつちさんが、叶の元に来ていたように。
知らせを受けた美千代が、客間で待っている叶の元にやってきた。ゆっくりとしか歩けない美千代を支えていた女性に、祖母が巫女装束を持ってくるように命じた。
最初に美千代に会ったときと同じように、正座した叶は、大儀そうに座椅子に凭れかかっている美千代を見つめた。
「こんな雨の中、祈祷場へ行ったのですか。馬鹿なことを……」
まもなく女性が、黒い着物が収められたたとう紙を持って戻ってきた。言われるがままに女性に連れられて隣の座敷に入ると、すぐに黒い振り袖を着付けられた。髪にもドライヤーを掛けられて整えられる。
等身大の姿見が持ってこられて、叶は鏡面に映った着物姿の自分を見つめた。
宝尽くしの柄が、袖から裾へと流れるように描かれている。単なるプリントだと思っていたが、近づいてよく観察すると、一針一針刺繍したものだった。
振り袖は自分にあつらえて作られたようにぴったりだった。
「これは希さんの巫女装束なんですよ」
女性がにっこりと笑いながら鏡の中の叶をどこか懐かしそうに見て、教えてくれた。
黒い巫女装束なんて初めて見た、と叶は物珍しげに自分の姿を観察する。
「希さんが戻ってきたみたいね」
女性が少し涙ぐんだ。
心の中で、私は希じゃない、と叶は苦々しく思う。希の代わりとしてここに縛り付けられるのは御免だった。
ふすまの向こうの客間から、一夜が声を掛けてくる。
「準備はできた?」
「はいはい、今行きますね」
女性がふすまを開けて、叶をお披露目する。
美千代が満足そうに笑んだ。
「希の巫女装束がよく似合っていますね。あの子が帰ってきたみたい……」
美千代が女性に支えられて立ち上がり、一夜に案内するように命じている。
「じゃあ、俺に付いてきて」
車での逃亡も失敗して、外に出ればみつちさんにつけ回されることを考えると、このままおとなしくお祓いを受けたほうがいいだろう。叶は黙って、一夜の横に並ぶ。
まるで、すでにお祓いの儀式が始まっているかのように、皆黙って屋敷の奥へ進んでいく。屋敷の廊下のどん突きに、いきなり重厚な扉が現れた。
「蔵……?」
屋敷の中にある扉なので、蔵かどうかは分からないが、分厚い観音開きの扉で、それを一夜が開く。
蔵の内部が見えるだろうと思っていた叶は、扉の向こうに庭があるのに驚いた。焼杉の背の高い塀に囲まれた庭の真ん中に、本物の蔵が鎮座していた。それほど大きな蔵ではない。おそらく外観からすると、壁の厚さを加味して内部は六畳ほどの広さだろう。ここで何をするのか、全く見当が付かない。
一夜が蔵の扉を開き、叶を振り向いた。
「入って」
手で招かれて、叶はおずおずと、蔵の内部を見渡しながら中へ入った。
蔵の中は薄暗い。天井付近にある明かり取りの小さな窓から、オレンジ色に染まりつつある日の光が、ささやかながら差し込んでいる。畳敷きで、家具や荷物のようなものはない。
天井には何本も黒光りしている梁が天井を支え、加工されていない太い柱と柱の間に渡されている。二階はなく、引き戸が一戸あり、その向こうにトイレが備え付けられていた。
部屋には折りたたみの座卓が据えられていて、そこにお菓子やおにぎりなどの食べ物とお茶のペットボトルが置かれていた。
「ここで何をするんですか」
叶が聞くと、
「ここにひと晩、いてもらう。ちゃんと蔵の四隅に結界を張ってあるから、みつちさんは簡単に中に入ってこられないよ。この中に籠もってみつちさんを無視できれば、しばらくはみつちさんに付きまとわれない」
一夜が真剣な顔をして言った。
「それだけですか? しばらくっていつまで?」
「分からないが、君自身がみつちさんを祓えるようになるしかない」
私は帰るつもりだ、という言葉を今はぐっと堪えて呑み込んだ。みつちさんを祓ってもらったら、どうにかして自分の家に戻る。おみず沼がなければ、みつちさんも私を殺せない、実家にいたときのように、自分を驚かせて怖がらせるだけの存在に戻る、と叶は思った。
「他に何かしないといけないことはありますか」
「特にない。とにかくひと晩、夜が明けるまでこの中にいて、だれが呼んでも声を掛けても答えないこと。もし反応したらみつちさんはこの蔵に入ってくる。そうしたらもうみつちさんを祓うことはできない」
絶対に守ってほしい、と念を押された。
そんなことを言われるまでもなく、叶は今度こそ失敗しない、返事もしないと決めていた。
一夜と女性が出たあと、扉が閉められた。多分、鍵も掛けられたと思う。叶は最初こそ正座して座卓に頬杖を突いていた。
唯一の扉には格子窓が付いていて、外の様子を窺うことができる。
扉が閉められてしばらくは、人のざわめく声やものを動かす音がしていた。やがて、太鼓の音がし始めて、御霊移しの時に聞いたような祭文を、美千代が唱えている。
何度もつっかえたり止まったりと、あまり効果がなさそうな唱え方だ。綺麗に唱えたら効果があるというわけではないだろうが、叶はそんな気がしてきて、不安になった。そっと立ち上がり、音を立てないように格子窓に近づいて外を窺う。
いつの間にか、雨が降りだしていた。
雨の中、地面に直接一畳敷いて、その上に美千代が座り、棒に白いひらひらしたものを取り付けた幣ぬさを振りつつ、むせながら黙々と休みなく唱えている姿があった。空気を震わせるように太鼓を叩いているのは、一夜だ。一体、この儀式はいつまで続くのだろう。
日が落ちて、祈祷をしている人たちの顔が判別できなくなった頃、ようやく今が十九時すぎだと分かる。
美千代は息を継ぎながら、苦しそうに幣を振り、か細い声を漏らしている。今にも倒れてしまいそうだ。
完全に日が暮れるまで、叶は外の様子を観察していた。しかし、次第に飽きてきて格子窓から離れる。すると、あっという間に闇が押し寄せてきた。手探りで唯一あったランタンのスイッチを点けると、闇を塗り固めたような漆黒が蔵の四隅に逃げた。
ハンドバッグもスマホも取り上げられたので、時間を潰す手慰みもない。
ぼんやりしていると、コンコンと格子窓が叩かれる。
「叶、スマホを持って来たよ」
我に返って顔を上げ、格子窓を見た。確かに母親の声だった。
「開けて」
そこでまたハッとする。まさかと思うが、これがみつちさんなのか。神域でも、ごく自然に一夜の声で話しかけてきた。それと同じ得体の知れない存在が、今度は母親のふりをして側に来ている。
「叶、叶! 迎えに来たぞ。帰ろう」
今度は父親だ。叶が両親に一番言ってもらいたい言葉が聞こえてくる。けれど、声の主は両親ではない。そう考えるとだんだんと悲しくなってくる。本家がどれほどのものなのか。どれほど偉いのか。そんなことは叶には関係ない。できれば両親にも気にしてほしくない。それなのに、現実は叶に厳しい。
こんな呼び声は叶の心をかき乱す。でも泣いて反応すれば、儀式は失敗するらしい。
死にたくない思いが悲しさよりも強くなる。生きていればいくらでも反抗して、両親の元に戻られるはずだ。
外から太鼓の音だけが響いてくる。リズムを刻む太鼓の音よりも鮮明に、みつちさんの声が叶の耳に忍び入る。自分が言って欲しい言葉や心が揺れる言葉を囁いてくるのは、みつちさんがどうやってか分からないが、叶の心を読み取っているからだと思った。
耳を押さえても、声は手のひらを通り抜けてはっきりと聞こえてくる。声を上げて抵抗すればやはり反応したことになるかも知れない。
膝を抱えて声を聞かないように、叶はぎゅっと目を閉じた。
どのくらい経っただろうか……。
緊張の連続に疲れ果て、叶は眠気に襲われ、いつの間にか横になっていた。泥の中に横たわっているかのようなねっとりとした空気に体が浸かっている。
急に何か恐ろしいものがやってくる恐怖に駆られたが、目が開かないほどの眠気に負けそうになる。起きなければ、怖い目に遭うと分かっているのに、意識を手放しそうだ。座卓に手を伸ばし、体を起こそうとしたが、気絶するように叶は意識を失った。
まだ雨が降っているのか、雨粒が蔵の瓦や壁に当たる音が聞こえてくる。蒸し蒸しする空気とともに畳を踏む足音がひたひたと伝わってきた。
畳に頬をくっつけて気を失っていたことに気付いたが、ランタンの消えた蔵の中は、一寸先も見えないほどの闇に包まれている。叶は座卓の真下を覗くように横たわっている。視線の先に格子窓の付いた扉の下方と、暗く沈んだ四隅の一角が目に入る。
黒いねっとりとした夜目に、ぼんやりと何かが見えてくる。目の前に横たわる闇は光を吸収して反射することのない漆黒に似ている。その漆黒の向こうに、うっすらと白い何かが闇に浮き上がった。
黒い裾からわずかに覗く白い足袋。泥で汚れているのか、水気を帯びて黒く汚れている。裾にあしらわれた宝尽くしの手鞠を刺繍した糸の一本一本が、まるで照明を当てたようによく見える。
それは、暗闇の一角に埋もれるように立っている。座卓が邪魔で、裾から上はどうしても見えない。あれは希だ……、とぼんやりと思う。
ここでようやく、叶は自分が金縛りにかかっていることに気付いた。
この足はいつも雨の日に現れる。薄ぼんやりとしているくせに、視線を外した途端、くっきりと輪郭が際立つ。墨汁のような闇から、足が一歩踏み出した。
不思議なことに泥に汚れた足袋から分裂するように、綺麗な白い足袋が現れて、畳をズッズッと摺りながら、叶から見て左手に消えた。
足を摺る音が、そのまま叶の足下に回り、背後に移動する。足が移動するのを叶は凝視していた。
背後に立つ足の存在を強く感じる。尾てい骨から首筋にかけて、鳥肌が立つ。寒いわけでもないのに悪寒が走った。
叶の背後で、うずくまる足の存在が大きくなる。膝を畳について、背中越しに叶を見ている。首を伸ばして、長い髪を垂らし、じっと叶を覗いている。
濡れた黒髪がぞろりと叶の帯を這う。肩に重たい気配が迫ってくる。顔が見えてしまうと思って目をつぶると、スッと気配は消えた。
やっと消えてくれた。と安堵したが、やはり体は動かない。
何が起こっているのか、想像も付かず、ただ恐ろしい。ぞわぞわと嫌な予感がする。腹の中でうじゃうじゃと虫が蠢いているような気持ち悪さ。虫がみぞおちに上がってきて嘔吐えずいたが、気持ち悪くなるばかりで、何も出てこない。
額とうなじに脂汗が浮いてくる。じっとりとした空気に冷たい汗をかく。いっそ、このまま気を失ってしまいたいのにそれができない。
うっすらと目を開けると、座卓の下を黒髪で顔が隠れた女が覗いていた。
喉を息がひゅっと通り抜けていくが、声が出ない。
黒髪が畳でとぐろを巻いている。目元は隠れているが紫色にうっ血した唇ははっきりと見える。顔の高さは叶と同じなのに、首が九十度に曲がり、座卓の上部に隠れている。首から下が座卓に隠れて見えない。
土気色にも見える唇がわずかに開くと、ぽっかりと黒い穴が空いている。パクパクと唇を動かして何か言っている。耳を塞ぎたいのに、女の囁き声が耳元に忍び入る。
「おまえか」
確かにそう聞こえた。また女が口を動かす。
「おまえか」
何度も聞いてくる言葉が機械的だ。
女の顔もどこか立体感がなく、ザザッとノイズが走り始める。けれど、声だけは耳元で囁かれる。
「おまえか」
座卓の上から黒い振り袖が垂れた。はっきりと宝尽くし柄が見える。振り袖から芋虫のようにくねる白い指が現れた。指の動きがおかしい。人にできる動きではない。
座卓の裏面を這うように指が近づいてきていたが、シュッと素早い動きで指が振り袖に引っ込んだ。振り袖も座卓の上へたぐり寄せるように消えていき、気付けば顔もいなくなっていた。
叶は息を潜めて、じっと座卓の向こうを見つめる。格子窓から漏れる淡い光が見える。おそらく祈祷している祭壇に点された明かりだろう。けれど、何一つ音は聞こえない。多分、叶の声も扉の向こう側には聞こえてない。
漏れた明かりが畳の上に差している。ズズズとその光を遮って、左から右へ何かが横切っていくのが目に入った。漆黒の影がゆっくりと移動していく。光を遮っている形が尋常でない。畳に映る影を、叶はただ見ているしかない。
その大きな影が座卓を回り込み、叶の枕元に立つ。
また、最初の存在が戻ってきたのか、と叶はぼんやりとした頭で考える。恐怖が限界に達して、気力がすぼんでいた。
突然、掛け布団のように影が叶に覆い被さった。
叶は金切り声を上げた。何度も喉が裂けるほど叫んだはずなのに、蔵の中は夜のしじまに沈んでいる。人の声、虫の声、雨音も何も聞こえない静寂。
影がもぞもぞと叶の腹に這い上がってくる。動けない叶にとって、それは言葉にできないほどおぞましい。
まるで巨大な虫が、ぞろぞろと叶の腹に入っていく。臓器を無数の手が掴む感触がする。いくつもある頭が体に押しつけられる。
叶は何度も悲鳴を上げた。何かが体の中に分け入ってくる。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!
頭がおかしくなりそうな恐怖に意識が散り散りになっていく。
逃げられず、拷問のように、皮膚の下、臓器の中を何かが這いずり回る。
ふっと意識が遠くなるときに、叶は辺りが一瞬明るくなったように感じ、写真で見た女性の顔が見えた。