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第三章 祟り石 第7話

 止めてと頼まれたのに、止めても行くのだから、頼んできた意味がない。本当に白は自分の危険な行動を止めてほしいのだろうか、甚だ疑問だ。

 夜が更けて、二十二時を過ぎた。

 白がそわそわし始めて、すっくと立ち上がるといそいそとコートを着込んだ。

「じゃあ、行こうか」

 資料から顔を上げて、山田はいやいや立ち上がってブルゾンを羽織った。


 十一月下旬のぞくぞくとする冷たい風が、新旧学部棟の間を吹き抜けてくる。

 山田はブルゾンのチャックを上げ、ポケットに手を突っ込んだ。

 前を歩く白は意気揚々と軽い足取りで、祟り石の一角に向かっていた。

 風上に立つ山田の鼻には、白以外の生臭さは感じられない。風にも影響されない臭いは、白を取り巻いて包んでいるような気もした。白が悪臭を放っているのではなく、臭いは生き物のように白からつかず離れず漂っているのかもしれない。

 とうとう、祟り石の前に立ち、白が振り返った。月の明かりだけに照らされた白は紺色に沈んでいる。表情までは分からないが、多分、目を輝かせているに違いない。

「さぁ、触ってみるから、山田君は道を見張っていてくれるかな」

「はぁ」

 山田は気のない返事をした。

 やりたくないがやらざるを得ない。山田の額にじっとりと脂汗が浮かぶ。

 幽霊は見たことがなかった。あの夜、初めて綿子以外の異形を目にした。幽霊ではないのかもしれないが、化け物に間違いはない。何故見えるのかまで分からない。ただ、今日は偶然見るわけではなかった。強制的に見ることになるのだ。これで恐怖を感じないはずがない。

 白が、「行くよ」と合図した。

 山田はゴクリとつばを飲んだ。

 冷たい風が少し生ぬるく感じられる。吹き付けてくる風に、なんとも言えない腐った臭いが混じってきた。

 遠くから、何かを引きずる音が聞こえてきた。ズーッズーッという、重たいものを引きずっているような音だ。

 生臭い風が、ふぅっと山田の顔に当たり、前髪がたなびいた。

 正面の道から、白く大きなものが近づいてくるのが見えた。二棟以上離れているのに、山田の目に映る白いものの上下のバランスが悪い。

 大きな四角い頭と、頭に比べて自棄に小さい体。長い両腕を前に垂らしている。白い服の長い裾を引きずっていて足は見えなかった。

 顔はのっぺりとして、ストンと何もない。うねるべったりとした黒髪が、頭や肩、体に貼り付いているのが、一棟先からでもよく見えた。

 少しずつ近づいてくる。

「来た?」

 背後で白の声がした。

 山田は声を出せなかった。その代わり、ゆっくりと振り返って、なぼうが近づいてくる方向を指差した。

 指差した途端、白が走り出した。意外に早い。

 山田は固唾を飲んで見守るしかなかった。

 なぼうの目の前まで、白が迫っていく。山田は、目をつぶりたいが、ぶつかった瞬間を見ていなければならないという苦行に耐えた。

 なぼうと白、お互いが交わると思った瞬間、なぼうと白の間に壁か何かが出来たような気がした。目に見えたわけではない。壁がある、とそう思ったら、いきなりなぼうが弾かれて、消えた。

「え?」

 山田は唖然とした。白は無事なようだ。すると自然に左目から涙が滴った。

 安心したからなのか、感情とは関係なく、頬を伝って涙が迸った。山田にも、何故自分が泣いているのか訳が分からなかったが、左手の甲で涙を拭った。

 白が立ち止まり、またこちらに戻ってきた。

「見えたかい?」

 遠くから手を振って、声を掛けてくる。

 山田は自分も大きく手を振り、両腕で丸を作った。

「おー! やった!」

 有頂天になっている白が息を切らして、山田の前に立ち、目を大きくした。

「山田君、血が出てる」

「え?」

 鼻血かと思い、鼻を指で擦ってみた。左手の甲が黒い。青白い月光に照らされて、左手を染める生温かい液体が涙ではないと悟った。

「え!」

 慌てふためいて、山田は自分の左目を触る。たらたらと何かが垂れ続けている。もう一度左手を見たら、手が黒っぽく染まっていた。

「戻ろう」

 白が山田の腕を引き、早足で旧学部棟に向かった。

 訳も分からず、戸惑いながら山田は白に付いていく。付いていきながら、自分の手を見つめていた。

 学部棟内に入ると、電灯が山田を照らした。山田ははっきりと手が真っ赤になっているのを目にした。気付けば、左目が見えにくい。泣いたときのようにぼんやりとしていた。

「なんで」

 訳が分からなくて、山田は呟いた。

「とにかく、救急車を呼ぼう」

 白ですら狼狽えているのか、声がうわずっていた。

 研究室に入り、白が山田を椅子に座らせる。

 血が、首のギブスとブルゾンを真っ赤に染めている。山田は訳の分からない恐怖に呑み込まれそうになった。

「なんでなんで」

 何度も呟きながら、目を拭っては手を見た。

「あんまり触ったらダメだ」

 白に言われてタオルを手渡される。

「左目を押さえて」

 言われるがままに、眼鏡の下にタオルを押し込んで左目を押さえた。

「こ、これ、どういうことですか」

「分からない」

 白が心配そうに首を振った。

 白の呼んだ救急車が、十分もせずにやってきて、二人は救急車に乗り込み、福北大学病院へ運ばれた。


 大学病院の待合室で待っている間にタオルは真っ赤に染まっていく。看護師に呼ばれて、診察室に入った後、翌日眼科を受診するように告げられて、応急処置を受けた。

 あれだけ噴き出していた血も止まったようだった。二人は地下鉄に乗り、ひとまず福北大学に戻った。

 研究室の椅子に座り込んで、山田は言葉もなく俯いた。ギブスのせいで顔は正面を向いていたが、気持ちは沈んでいる。これはなぼうに祟られたと言うことなのだろうか。まるで弓美のように、左目から血が出た。

「なんで山田君の左目から血が出たんだろう」

 同じく椅子に座った白が腕を組んで考え込んでいる。

「ぼくにも分かりません」

 山田はそう答えるしかなかった。

「まるで、なぼうに祟られたみたいだね。でも、生臭くない」

「生臭くないんですか?」

 山田が危惧していたことを、白が否定した。

「一応。一体、何が起こったんだろう」

 山田は、なぼうと白が交わった瞬間を思い起こす。なぼうが白の前で弾かれて消えた後、山田の左目から血が流れ落ちた。これは全く関係ないことなのだろうか。

 絶対に関係がない、とは思えなかった。

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