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ぐひんの山 第十章 狗頭

 しんしんと空気が底冷えするような寒さに山の林道も凍り付く。闇が深く、斜面の木々の奥だけでなく、車のヘッドライトが照らす先も黒く底知れない。光は闇に飲まれ、見通すことは不可能だ。山を覆う黒い塊をつんざく、黒のスポーツカーが発するエンジン音と、ボリュームを最大にしたスピーカーからとどろくドンッドンッという音が、暗闇に吸い込まれていく。

 助手席に座る金髪の男が、体をねじって後部座席を振り向く。後部座席に座る、自分の彼女と友人の彼女に饗庭村周辺の町で噂されている話を聞かせる。

「ラジオから、自分の名前が聞こえるんっちゃ。その声が自分を呼ぶんやっち。んで、だんだんあの首吊り鉄塔に行きたくなるんっちゃ。声が、首を吊れっていってくるんっちゃよ。ラジオのチューニングが首吊り鉄塔の電波にあったら最期、取り憑かれて首を吊っちまうんやっち」

「ひぃっ。やめてよぅ」

 男がまことしやかに饗庭村外で流行っている都市伝説を、脅かすように低い声で話した。

 ガタガタと揺れる車体が、雪に覆われた狭い林道を登っていく。

 狭い林道からタイヤが雪の積もる轍から外れてしまわないか、後部座席の女が不安がる。

「ゆっくり走りぃよぉ」

 二組みのカップルが車窓の外を覗いてはしゃいだり、ふざけたりしてじゃれ合っている。

「もう少ししたら首吊り鉄塔やけ、ばり怖くなるぞ」

 運転する男が女達を怖がらせる。

「もう、やめてっちゃ」

 怖がっている割には、鉄塔の空き地がライトに照らされると、興味津々で見回した。

「着いたぞ。なんや、あんまし怖くないやんか」

「ばり怖いっちゃ。あんた、神経ないんとちゃう」

 ブツブツと文句を言いながらも、女達が車から降りた。

 ライトで照らされて、闇の中に鉄塔が不気味にそびえ立つ。

「初詣に行くんやなかったと」

「ここで初詣っちゃ。心霊スポットで朝日見ようや」

「えー、寒いやん」

 四人は好き勝手言いながら、車から降りた。

 金髪の男がふざけて、鉄塔に向けて大声を張り上げる。

「おーい! 来たぞ! 首吊り鉄塔!」

 ゲラゲラと笑いながら、足下の雪をすくって鉄塔に向かって投げつける。

 鉄塔以外に何もない空き地だ。

 平良須山の首吊り鉄塔はここら辺では有名な心霊スポットだと言われている。不気味な影を見たという目撃情報が後を絶たない。ここを訪れたあと、行方知れずになるとも言われていて、やんちゃな若者たちの度胸試しに利用されていた。

 肝試しに来る連中はここが私有地だとは思っていないのだろう。特に柵も立ち入り禁止の看板も立ててないので無理はない。

 ざくざくと雪を踏みしめて、四人は鉄塔に近づく。特に変哲もない鉄塔を見上げる女達はつまらなそうに女同士で寄り添い合っている。

「もう帰ろうよぉ」

 夜景が見れるわけでもない、ただ寒いだけの空き地にすぐに飽きてしまったようだ。

「写真撮ろう。心霊写真撮れるかもしれん」

「バッカじゃないの」

 口ではそう言ったけれど、スマホを男が構えると、自撮り画面に四人が入るようポーズを取った。

 鉄塔の四本の脚の周りを探索したあと、退屈そうに女達が文句を言い出した。

「めっちゃ寒い……! もう帰ろうよぉ」

「なんもないやん」

 と女が文句を言ったとき、ザザザザという音がした。音は次第にカップル達の周りを囲み始めた。

「なんなん?」

「なんの音なん?」

 不気味で不穏な空気を察知した女達が呟いた。

「車に戻ろぉ」

 女が一人、車に向かって走り出した。その後に続くように女の連れもきびすを返す。

「ちょぉ待ちっちゃ。置いてかんで!」

 ザザザザという音が四人を囲む。音だけの存在に怯えた女がしゃがみ込んで頭を両手で押さえて叫び始めた。

「行こぉ、ここにおったらいけん。よ立ちぃ」

 金髪の男が、叫ぶ彼女の脇を掴んで無理矢理立たせた。腰が抜けているのか、膝がかくんと折れてしまって立とうとしない。

「立ちっちゃ!」

 ザザザザという音がカップルを取り囲むように聞こえてくる。鳥やタヌキでは出せない音だと本能的に悟った。

 月光に照らされて、何かが暗闇に浮かび上がる。

 ぎらりと刃物が鈍く照り返す光が見えた。鉄塔の脚の下から、黒々とした塊からずるりと生まれるようにしてひねり出される。ぐらぐらと揺れる、口吻の長い影。骨が抜けたような奇妙な歩き方をしながら、不自然なほど頭の大きなヒトが現れた。体を左右にくねらせながら、刃物を手にしてゆっくりと迫ってくる。

 積もった雪を踏む音が聞こえない。絶えず、ザザザザと音を立てるだけだ。

 車に乗り込んだカップルが空き地に取り残された男女を置き去りにして、空き地で方向転換し林道を下りていく。

「うっそやろ! まじかよ! あいつらあとでぶっ殺す!」

 取り残された男が叫んだ。空き地の真ん中で、男の連れの女が大声で叫び続けている。

 近くに迫ってきてようやく頭が犬だとわかった。その頭にぐんにゃりとした四肢の細い、子供の体がくっついている。頼りなく左右に揺れながら迫り、細い両腕が二本の鉈を振りかざす。

 女が絶叫した。山間の暗闇に悲鳴は吸い込まれて、やがて静けさを取り戻した。


 正月飾りも何も用意することなく、桐野一家は新年を迎えた。

 朝早くにインターフォンが鳴らされて、陽菜が玄関の引き戸を開けた。

「おはよう……」

 と挨拶を仕掛けて、相手が警察官だとわかって言葉が引っ込んだ。町からわざわざやってきて、桐野家を訪れるには何か訳があるのだろう。二人の警察官の一人が、「おはようございます」と声を掛けてきた。

「あの……」

 何があったかと口を開くと、先に警察官が説明を始めた。

「昨晩、桐野さん所有の山に不法侵入した男女の安否確認を取りたいのですが、立ち入り許可をいただけませんか」

 急なことと、不法侵入と聞いて、陽菜は警察官に「父に聞いてきます」と台所へ駆け込んだ。

 すでに起きて朝ご飯を食べている両親が駆け込んできた陽菜を不思議そうに見た。

「お父さん、警察の人が来てるんだけど……。なんか、昨日の夜に不法侵入した人がいるんだって。立ち入り許可をくれって言ってるんだけど」

 父親が訝しそうに眉を寄せて、箸を置き、立ち上がった。

「なんなんだ……?」

 ブツブツと言いながら、玄関に向かった。玄関のほうから父親と警察官の会話が聞こえてくる。

「不法侵入? 誰がですか」

「昨夜、桐野さんが所有されている山に勝手に侵入したとのことで、現地にとり残された男女の安否確認の為、立ち入りをですね、お願いに来たんですよ」

「はぁ、まぁいいですけど……。昨夜の車の爆音はそれだったんですねぇ」

 昨夜遅く、確かに近所中に騒音をまき散らしながら車が走っていたのはわかっていたが、まさか山に侵入したとは思わなかった。てっきり袋小路の道だと知らずにやってきた暴走車だと、陽菜は勝手に思っていた。

 陽菜も事情が知りたくて、玄関へ行ってみると、警察官の後ろに青い顔をして不安そうにしている男女がいた。どうやらその二人が昨夜の爆音の張本人のようだ。

「その人達が?」

 父親が男女に目をやって聞いている。

「通報をした当人です」

 男女が怯えた表情を浮かべて、口走る。

「まじで変な音が聞こえたんすよ」

「あたし達、あの二人を置いてきちゃって」

 憔悴しきった顔で必死に訴えてくる言動に嘘はなさそうだ。

 警察官のさらに後ろには野次馬の村民が群がっている。どうも正月早々に問題が起きたと、高みの見物を決めこもうと集まった連中だった。

「わたしも行きます」

 と、ただならぬ雰囲気を父親は感じ取ったようだ。

「ちょっと警察の方と裏山に行ってくる」

 父親は玄関先のハンガーに掛けておいた自分の上着を羽織り、警官を案内するように山へ登っていった。

 陽菜は慌てて台所へ行き、事情を母親に話すと、自分も上着を羽織り、後を追いかけた。金魚の糞のように付いてくる村民を押しのけて、父親に追いついた。

「ねぇ、お父さん。どういうこと?」

「さぁ? 俺にもよぅわからん」

 山間の気温は日が昇ってもなかなか上昇しない。積もった雪も日差しを浴びても溶けずに残っている。轍が残る山道をぞろぞろと歩き、靴跡が雪を踏み固めた。杉の枝に積もった雪が時折バサリと音を立てて地面に落ちる。カラスが鳴きながら人間を遠巻きに見ている。

 やがて、鉄塔が立つ空き地に着いた。日差しを浴びた鉄塔が白く照り輝いている。巨大な鉄塔の脚下に何かがあるのを陽菜は見つけた。

 それと同時に男女が空き地を指差した。女が、いきなり怯え始める。

「あ、あれ……。あれ……」

 ぞろぞろと野次馬が空き地に入ってくる。それを一人の警察官が両腕で阻止しながら、「入らないように!」と警告する。

 陽菜は空き地の真ん中に倒れている人の姿を見た。二人ともピクリともしない。積もった雪にうつ伏せに倒れている。警察官が二人に走り寄る。何度もうつ伏せになった男女の名前を呼びかけて意識があるか確かめている。村民を抑えていた警察官が救急車の手配をしている。陽菜は身を乗り出して、男女の様子を窺った。外傷はなさそうだ。一瞬、凍死したのかと思ったが、ふと男の首元に目が行く。赤い筋がチラリと見えた。聡と同じものが男の首にある。

 警察官が女を仰向けにして応急処置を施そうとしている。女の首にも赤い筋があった。警察官が首を横に振っている。二人とも死んでいると判断されたようだ。

 震えている男女が、訴えるように言いつのる。

「まじで犬の頭した化け物が来たんすよ!」

「手に包丁みたいなの持ってて……!」

 そのとき、野次馬からぼそぼそという声が聞こえた。

「ぐひん様に喰われたんや」

 この言葉をかわぎりに、村民が口々に父親を罵り始めた。

「おまえが鉄塔ば立てたせいや」

「ぐひん様のお怒りをうたからこんなことになったんや」

 陽菜は父親のせいでぐひん様が人を襲い始めたと思い込んでいる村民に寒気がした。こういうときに初めてぐひんという言葉が村民の口から出ることが恐ろしかった。この人達はぐひん様が平良須山にいることを本当は知っているのに、おくびにも出さず秘密にしているのだ。平良須山に一人で入ってはいけない理由を知っている。桐野家を罵倒する言葉としてこの迷信を使い分けている。それだけではない。村民は山の民だった桐野一族を、最初から歓迎などしていなかったのだ。異端者として扱い意識していたから、ほころびが生じればいつでも桐野家を責め立てる理由にしている。だから桐野家はこの村から去り、いなくなってしまったのだろう。恩恵だけ受けて、山の民の一族を受け入れない村民に対して、陽菜は悔しさが勝って、つい声を荒げた。

「ぐひん様が本当に存在するなら、今ここにいるあなたたちだって危険じゃないんですか? ぐひん様の言い伝えが正しいなら、二人も死んでないはずですよね?」

 平良須山に一人で入ったらぐひん様に喰われる。この言い伝えが破られたということは、今まさにぐひん様が現れてもおかしくない。

 村民は陽菜の言葉にたじろいだのか、うろたえつつ、おとなしく山から下りた。

 警察官、肝試しをした男女、父親と陽菜が空き地に取り残された。

「ぐひん様ってなんですか」

 警察官の一人が聞いてきたので陽菜は答える。

「言い伝えです。この山にぐひんという山神がいるっていう」

「ほう……」

 陽菜は亡くなった二人の男女の首の赤い筋を見ながら考え込む。

 桐野家の言い伝えを村の人も共有しているのがわかった。ぐひん様という存在が平良須山にいて、村民を喰うと信じている。それは江戸時代以前の記憶として密かに伝えられていたのだろうか。しかし、ただの言い伝えならば、実際に人が死ぬことはない。

 男女が見たぐひん様の姿は、陽菜が夢で見たものと同じだった。ぐひん様の存在を男女が知っているはずもない。これは共同幻想や集団ヒステリーなどではない。本当にぐひん様というものが存在しているとでも言うのか。

 それならば、甕に封じられていたのはぐひん様なのか。甕の封印を解いたことでぐひん様は外の世界に出たのか。それとも、ぐひん様の一部だけを封じていたのか。いや、そうではない。桐野一族は木箱を媒体に『かんすさび』をすることで、ぐひん様が里に下りないようにしていただけなのかも知れない。しかし、蔵を開けてしまい、ぬいぐるみを使った身代わりがなくなって、今後はぐひん様をごまかすことが出来なくなった。昔、山の民が封じた方法を、ぐひん様を封じるためにおこなわなければいけないのか……。村民のために桐野家が犠牲にならなければならないのか。しかし、その前にどうやって再現すればいいのかわからない。オオカミでなければ犬を使うのか。何より生け贄の一人、ヒトはどうする。

 甕が作られたのは江戸末期だ。木箱がある蔵もそのくらいに作られたのだろう。あの座敷牢も同じだ。座敷牢に何を閉じ込めていたのかわからないが、装置を作るために利用したのだと確信している。

 このことを祖父は知っていただろうか。生きていれば、こんな状況を上手く収めてくれただろう。祖母は甕の存在を知っていたのだろうか。知っていれば、必ず陽菜に助言をくれるだろう。

 しかし、現実には祖父母は亡くなり、弥生も神隠しに遭い、そのせいで両親が不仲になった。

 陽菜は、自分の力のなさに込み上げてくる感情を抑えた。

 ザザザザ、ザザザザ。

 陽菜は驚いて周囲を見渡した。この音はまさか、ぐひん様の足音か。ザザザザという音は頭上から聞こえてくる。恐る恐る見上げた。

 落葉し損なった枯れ葉が風に揺れて擦れあう音だった。

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