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檸檬とボードレール

 福田尚弘さんのnote(すみません、断りもせず文末に貼らせて頂きました)を拝見して、久しぶりに梶井基次郎の「檸檬」が読みたくなって、家の本棚にあったので再読。最初に読んだのが何十年前なのか全く覚えていないけれど、ラストシーンの印象は鮮烈なまま、丸善のイメージからか、勝手に東京だとばかり思っていた物語の舞台は京都だった。私が何となく御茶ノ水辺りを想定しているのは、ひょっとするとさだまさしの「檸檬」の影響だろうか?勿論、この曲も梶井基次郎の「檸檬」を踏まえた本歌取りなんだろうとは思うけれど。
 福田さんのnoteを読んでいると、梶井基次郎の人となりがリアルに立ち上がってきて、31年という短い生涯の中にも濃密な喜怒哀楽に思いを馳せ、宇野千代さん(何故ここはさん付け?)とのプラトニックな関係にグッときてしまう。略歴の最後に座右の書がボードレールの「パリの憂鬱」だったと書いてあって、懐かしさに本棚を探してみたらこちらも偶々見つかったので(若い頃の自分、グッジョブ!)、パラパラとめくってみると所々に鉛筆で線が引いてある。「一人きりでいることの出来ぬ、この大いなる不幸!」とか、「愛とは、私には監視のように思われた」とか。確かにあの頃、私はこうしたシニカルな表現に無条件の共感を覚えていたのだ。
 「檸檬」を読み終えてもう一つ気付いたのは、書かれたのが今から丁度100年前の1924年10月だったということ。60年の余も生きていると、若い頃は否定していた時代というものを感じるようになる。自分が生きてきた時代の枠組みは100年前の革命や大戦の結果出来たもので、そのフレームが制度疲労を起こして次を模索しながら揺らいでいるのが多分今なんだろう。その揺らぎはもう10年や20年続きそうだが、そこに数百年から一千年単位での自然のサイクルも加わりながら地球と社会は動いている。次に来る大きな波がどんなものかは分からないけれど、私たちに出来るのは一日一日を大切にしながら、一つ一つの判断や対応を丁寧にやっていくことだけだ。とは言え、忘れてはいけない。同じ繰り返しのような日々の中でも、私たちはその気になりさえすれば美術書の上に黄金色の爆弾を仕掛けてくることだって出来るのだということを!

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