あかぎれの詩
宮島ひできさんの文章を読んで、たぶん半世紀以上ぶりくらいにあかぎれのことを思い出した。おそらく今の若い人たちはあかぎれになったことも見たこともない方が多いのではないだろうか?そう、冬に皮膚がパカっと赤く割れて無茶苦茶痛いヤツだ。私が子供だった1960年代、子供たちの手の甲はほぼ例外なくあかぎれだらけだった。(ついでに言うと、洟垂れ小僧たちのジャンバーの袖口はみんなペカペカと固まり光っていた)勿論私も例外ではなく、お風呂のときはあかぎれが沁みないように両手をホールドアップ状態で入っていた。だが、それだとあかぎれが治らないので、どこかで覚悟を決めてお湯でゴシゴシ洗い、その後で「桃の花」というその名の通りピンク色の粘度の高いハンドクリームを付けるのが日課だった。
多分日本の子供たちには珍しくなったあかぎれだが、世界的にはどうなんだろう?20年以上前に、氷点下20度以下の夜をマンホールの中で過ごす子供たちのドキュメンタリーを観た。それがきっかけで、極々少額ながら厳しい環境下で暮らす子供たちへの月々のサポートを始めた。本当に雀の涙程なので、サポートと言うより自分への免罪符としての意味合いの方が大きいかもしれない。それでも何もしないよりはましかなという程度のことだ。それからおよそ四半世紀、ふと気付くと日本でも子ども食堂等の取組みが盛んに行われるようになっている。誰かが日本は発展途上国ならぬ衰退途上国なのだと言っていたが、確かに人と同様国にも年齢があるのかもしれない。日本の子供たちにもサポートが必要ならと、数年前から別の雀の涙運動を始めた。
私自身、家に余裕がなかったので、仕送り無し・授業料免除(成績ではなく家計基準)で、奨学金とバイト代で大学を卒業した。奨学金の返済は大変だったけれど、返済無用の部分もあったのは有難かった。最近はどこに行っても少子化問題で、昔はみんな結婚して子供を育てるのが当たり前と思っていたのが、今は結婚や子育てについて多様な選択肢があるのはいい変化だと思うけれど、(勿論事情がある場合は別として)安易に他人のコスパ発言とかを真に受けていると後で取り返しのつかないことにならないか心配だ。なぜなら、子育ては効率や損得の話ではなく、大きな自然の中でのもっと根源的で普遍的なものだと思うからだ。
あかぎれの思い出から、話が随分遠いところまで来てしまった。何も難しい話がしたかった訳ではない。ただ、あかぎれだらけの子供時代も、今から振り返れば懐かしく、まんざら悪くなかったなぁとか…。