見出し画像

小説詩集3「ジェルキャタピラ」

ベンチに座ってバスを待っていたら、緑色の服を着た紳士が現れて、「隣に掛けてもいいですか」って聞いてきた。
あら、オーケストラの団員かしらって思ったけれど、色が違うと思いながら「どうぞ、どうぞ」と2回言った。
しばらく並んで座っていると、紳士が話しかけてきてそれがとてもいいヒントになった。

「時間がなぜ戻らないのかわかりますか?」

もちろんすぐには答えられない。
だって、いつも時間が不可逆的で循環がないのが不思議だなと思っていて、質量的な方程式が立たない、とずっと考えていたのだから。
それでつい数式的な方へ考えが進みかけたのだった。
けれど、その立ち止まった瞬間、奇跡的に核心をつく答えが降りてきた。

時間は生命そのもの。

紳士の顔を見た。紳士はうなずいた。
我ながら鋭い。そうと分かったらいろんな答えが導かれてくる。
何を選択していくかってこと。
何を買うべきか、何をコストとするべきか、みたいな。でもこんなふうに考えている間にも時間は刻々と進んでしまうわけで、とか、焦ってはいけない。満たされる感が最大のパフォーマンスなんだから。
それで紳士には感謝したけれど、再び私たちは並んで座ったまま黙り込んでしまった。

「あの、トイレを掃除すると実入りがいいと聞いたのですが本当でしょうか」
答えを知っているかもと思って唐突なことを唐突に聞いてみた。
「それは本当らしいですが、お金がいるのですか?」
紳士はちょっと私を覗き込んだ。
答えに困っていると「それは本当です」紳士がもう一度言った。
「そのかわり、それだけじゃだめなんですよ」とすぐに続ける。
「出かけたその先のトイレも掃除しなければいけないんです。それが生きるということなんですけれどね」
私はそれを聞いた瞬間なぜか、ずっと昔に聞いた言葉を思い出していた。「歩いてきた道も、これから行く道も美しい」誰に聞いたのだっけ。
でも、とにかく、そんな風に頭の回路で交差した。それでああそうなのか、と合点したのだった。すると。

すると、私はむくむくとした青虫になっていて透明なゼリーに包まれていた。
ああ、このきらきらとしたゼリーが私が磨いたところなんだ。この周りが私の守備範囲で、一生懸命磨いたんだって分かった。
今まで、何とかしてみんなに幸せになってほしいと思う気持ちと世界との乖離かいりに困惑してきたけれど、これで解決したわって気持ち。
何も他まで磨くことはなかったんだ、行った所を磨けばよかったんだ。範囲というものが分かった。

ところで、仕事に出かけると、声もしぐさもかわいいのにきれいにしている振りをして、よその人のものをよごしている人がいるのだけれど、それを私は止めることが出来ないでいた。
その人はヘビのような人でたくらむだけ企んでいたので毒牙にやられるのは明白だったから。でも、もうやるべき事は分かった。少なくとも自分の周りはきれいにするんだって。
私はすっかり青虫になっていてゼリーに包まれたままになじんでいた。生まれ変わった心は晴れ晴れとしていた。
やがてバスが来て、「お先にどうぞ」と緑いろの紳士をうながしたけれど、彼は「いや、私はこの辺で」なんて言ってバスには乗らず、虫みたいに足で蹴ってピョンとはねたかと思うと草むらに消えていってしまった。
リンリン鳴き声が聞こえてきたので、鈴虫だったのかと思う。
辺りは夕闇に包まれはじめていた。

バスに乗っても思考は続いた。
隣の肩と波打つように揺られながら、神様が時間をくれたんだ、って流れ去る景色を見ていた。
ずっと思っていたことがあったのだけれど、神様が作ったのにどうして美しくないものがあるのかしらって。ああそうだ、美しかったのに汚れちゃったのかも。そこをきれいにすればきっと神様が喜ぶんだ。そうだ、きれいにしながら自分の時間をゆたかに享受きょうじゅするんだ。
人に誤解されたままのことがいろいろあるけれど、それもこれも、神様のためにしていることなのだと思ったらやっぱり、それはどうでもいいことなんだ。
範囲と、やるべきこと、使える先が分かった。私は青虫になったままきらきらとしたゼリーを身にまとった自分の姿をながめて、これでいいと思った。だけど。

「だけど、誤解されて、引きずりまわされて、それでも神様だけに使えるわと心に思ったけれど、意図せず今日1日の苦しみに涙がこぼれるのはいったいなぜかしら」


「それが時間の本質なんですよ」
って聞こえてきて、今年は鈴虫がよく鳴きますね、って隣の紳士がつぶやいた。

いいなと思ったら応援しよう!