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小説詩集2「売れない記憶」

ある日、どうしても叔父さんのことが思い出せないという人が玄関からではなく裏木戸からやってきて、「記憶を売ってはくれませんか」と言った。
私の内部は記憶の宝庫で、すぐさま素晴らしい彼の叔父さんの記憶を引き出すことができた。
彼が深海色の青いシャツを着て小さな貝殻でも持つように、チョークでスラスラ数学の解答をしている姿が思い出された。夏の暑い教室。すると次から次へと彼のささやかだけれど輝かしい記憶が芋ずる式に蘇ってきた。
それを若者がひとつひとつ頷きながら丁寧に聞いているものだから、これはもう取っておくのはやめていっそ思いきって売ってしまった方がいいのでは、と私は思い始めていた。それでその人は代金を支払って叔父さんの思い出と一緒に嬉しそうに帰っていった。私の内部には隙間ができて、その空間が案外心地よいので驚いた。

それからというもの、縁側にいると決まってお客がやってきた。「私の母の記憶をお持ちではないでしょうか?」「ええ、持っていますとも」
この人のお母さんは語学の堪能な人だった。そんなことぐらいなら誰だって知っているけれど、彼女の凄さはそこではなかった。
よくよく見れば顔はまんまるすぎて正確には美人ではなかったけれど、私達にとって彼女は美人そのものだった。だからその丸すぎる面立ちになりたいと切望していた。
ある冬の朝、彼女は紺色の靴下をいち早くはき始めた。それが一面毛玉だらけだったのだけれど、見事に素敵だった。私たちはその年の冬、毛玉だらけの靴下を家中から探し出してこれ見よがしに履いたのだった。
そんな流行の作り方は誰にも真似できるものではない。
「だからあなたのお母様はとびっきり凄いひとだったのよ」そう締めくくって、私はいくらかのお金を受け取った。また自分の中に空間がうまれて晴れ晴れとした気持ちになった。

「僕の父さんはどうでしたか?」と訪ねてきた青年は言ったけれど、聞く前から誰のことか分かっていた。お父さんと瓜二つなのだから。
「あなたのお父さんはね、乱暴者だったわ。もしかしたらあなたも?」
青年は頭をかいた。
「乱暴で先生の言うことをひとつも聞かなくて、制服のボタンも一つたりともかけていなかった」「でも歌が好きでうまかった。授業が終わるとすぐに歌い出すのよ。優等生が黒板を几帳面に拭き消しているとき、彼はとてものびのびと歌うの。だから休み時間がなんだか心地よい空間になっていくような気がしたの」
「僕はもう乱暴はやめましたよ」青年が言った。
「そうでしょうね」と言うかそもそも彼は乱暴者ではなかったのだと思う。ある日、目に大きなものもらいが出来て、私は眼科に診てもらいにいった。
その待合室で彼のお母さんにあったのだ。
「つまりあなたのおばあ様ね」
その人は、私が呼ばれたその名前を聞いて話かけてきた。いつも息子が世話になっていますと。それから自分は目がどんどん悪くなって生活もままならないのだけれど、息子が手を引いてどこへでも連れて行ってくれるから助かっているのだと教えてくれた。たぶんあの時も彼は病院に一緒に来ていて、手続きか何かしていたのだと思う。けれど、私を見てびっくりして、遠くから私が診察室に入ってゆくのを見送ったのだと思う。
翌日から彼は変わった。それとも私が変わったのかしら。もう乱暴者ではなくなっていた。あの時初めて誰にだって他人の知らない顔があるのだと知ったのだった。
「私が知る限り、あなたのお父さんが一番親孝行なクラスメートだったわ」息子が照れ笑いするので、こころよく私はその記憶を売った。また空白が増えた。自分の中がどんどん整理されてゆくようで心地がよい。

記憶はどんどん売り払われて私自身もすっきりしてきた。ただ困ったことに売ることの出来ない記憶があることが次第に明らかになってきた。

他人から吸血鬼みたいに何かを奪う人の記憶が売れ残っていた。
奪うことでその人は生きていた。
言葉を絵筆のように持っているのだけれど、それは伝えるためではなく、通りの先に仕掛けておいた穴に上手に追い込むために使うのだった。そしてさも面白そうに淵から見下ろして笑って喜ぶのだった。
その心の渇きはいったいどこから来るものだったのか。そうしてその人は爽快な汗でも流すように心のエネルギーを吐き出すのだった。
私はその人から離れると理由もなく泣いた。なぜ泣くのかと涙に聞いてみるのだけれど、涙は答えを知らなかった。

私が中学に入る時、原因不明の高熱に侵されたことがあった。
長く病院を出ることができなかった。私はじっと我慢して時を待った。夏も過ぎてから私は転校生のように学校へ通い始めた。それでも何もかもがきれいに輝いて見えた。誰かのお母さんが近づいてきて「随分とゆっくり養生していたものね」って話しかけてきたけれど、私は説明することができなかった。その人が旅立った時、「誰にも嫌な事一つ言うひとではなかった」と言われて送られた。

親しくしていた友人が、ひどい上司につかまって行き詰っていた。私は「大変だね」と返信したのだったけれど、そのころ私の父の事業が翳りを見せていて従業員も取引先も友人もひとり、またひとりと去っていた。だから、「使う方も、使われる方も大変なものだね」と送った。友人は怒って「そうか、あなたのお父さんは社長さんだったわね。もうあなたには仕事のことは相談しない」と返事を返してきたけれど父も母も私も金策のために夜も眠ることができなかった。

広々ときれいになってきた私の部屋に、どろどろとした汚泥のような記憶が売れ残ってこびりついているのを見て私はあきれる。手放したい記憶ほど売り払うことがかなわずここにある。そしてこの身が焼き尽くされる時をただまっているのだ。

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