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小説詩集2「ある子供」

僕は、庭先に咲いた野生種のバラが揺れるのを見ながらピアノを弾いている。
僕が、この子供である僕が、せっぱ詰まって行き詰っていることなんて窓越しのバラからは想像も出来ないことだろう。
薔薇よ、君たちは優雅にゆれているね。そのピンクのひらひらを揺らしながら。

部屋のテレビはね、常につけっぱなしなんだ。僕が眠りこまないようにね。
母さんも悪気じゃないさ、すべては僕のためなんだ。たぶんね。
僕はね、数学の計算も得意でないといけないし、外国語も話せなきゃいけないのさ。それだけじゃない、大昔に書いた人たちの言葉も読めなきゃならないんだぜ。僕はいったい何者になるんだろうね。
それでいてピアノはもっとも重要な素養だときている。

僕はピアノはきらいじゃないさ、というか好きだった。
一番低い音から一番高い音まで階段を上るようにひくのが好きだったんだ。
それもスピード感をもって、あるいはそのリズムを変えて、さらには調性を翻して。陽気になったり、陰気になったり、まるでスケッチブックに色をぬっているような気分なのさ。

窓の外では、風がそよそよと吹いている。
ところがだ、例の付けっぱなしのテレビの中では大海原に暴風雨の嵐だ。
あの中の小舟の人々の誰が助かるものか。
僕は視線をもどし複雑な思いでピアノをひき続ける。
母さんが台所の方から見張っている。僕が爪を見たりしてボーっとしていやしないか、連日の睡眠不足でうとうととしちゃいないかと。母さんはつけっぱなしのテレビと一緒に僕を見張ってる。

僕が魔法使いみたいになんでも出来たらね。母さんの苦労は減ったろうし、僕が自分を責めることもなかったろうね。でも、僕は魔法使いじゃない。母さんがそうじゃないように。
父さんは、母さんが無口になると気まぐれに僕をしかって怒鳴る。えらく自分をせめているようで、僕を叱るのはそのせいらしい。つまり彼だって魔法使いじゃない。魔法使いだったら自分を責めたりするものか。

間違ってもらっちゃ困るのは、僕は母さんと父さんを憎みこそすれ、嫌いなわけじゃないということだ。それどころか案外好きだ。でもだからこそ僕は今ピアノの椅子から離れることは出来ないし、自由に鍵盤を鳴らしてみることも出来ない。僕は何になるべきで、何になれるのか、いっこうに分からないし不安だ。僕の人生の行きつく先を知ることは出来ないのか。

僕は指を動かし、ペダルを踏む。楽譜を必死で追っている。早くやってしまわなければ次のことが待っている。
テレビの中の「ある子供」たちは、まるで年寄りのようにうらぶれて、困っている。彼らはバイクのペダルを踏みエンジンをふかす。寄る辺なく町を彷徨い、チンピラどもにこづかれ、もう解決するためにできることはひったくりしかない。

彼らは決行する。年上の子も、年下の子も、共犯者はともに子供だ。君たちはピアノの鍵盤をひたすらたたく僕を気楽だと思うかい?
君らは僕からしたら信じられないほどに追い詰められていて、君らの生活をよくすることはもはや絶望的に、そして宿命的に困難だと思える。
それで、僕は君たちを見ながらその絶望に、あるいはそのどん底に涙があふれるんだ。君たちを案じないわけにはかないんだ、僕のこの追い詰められた気持ちで。そして、犯罪を決行する君たちの成功を祈らずにはいられない。
君たちよ、老婆から手提げ袋をひったくったら、すぐさまつかまらないようにうまく逃げてくれ。そして、そのお金を元手に将来へつなげろよ。先の見えない辛さは僕が誰よりも知っている。

テレビの中の「ある子供」の君よ、君は共犯の少年がひとりつかまってしまったのを首謀者として自首してたすけたね。そして、君はろうやに収監されたね。けれど君にはかわいい奥さんがいた。彼女は君に面会に来た。君たちは少々早すぎるが、赤ん坊を持つつぼみのような夫婦だ。そして彼女とともに泣くことができたんだね。

僕にも母さんがいるんだ。もちろん父さんも、妹も。僕はもう崖っぷちのひったくり犯で、君らのようにともに泣く誰かが必要なんだよ。
ね、やっぱりね、君らと同じく僕が不幸なんだってこと君らには分からないだろ。

僕は目を窓の向こうに移す。
僕はすっかり窓の外の薔薇にとりつかれていて、彼らの大合唱を聞くことができる。
「たくましく、強く、美しくいきなさい」と歌っている。
僕が数学の本を取り出すと、彼らは窓の外から僕に誘いかける。そして伴奏をせがむ。僕はそれに応えてもう少しピアノをひく。

僕はテレビに向かって問いかける。
「僕らは、大人になれるだろうか」
と、彼らは、
「僕らもしらない」
と答える。
「大人になったら、明日が見えるのかい?行き詰ったりしないのかい?」
と僕は聞く。
「知るものか」
とテレビは答える。
テレビの中の少年は共犯者を助ける。だから僕も母さんたちの思惑にこたえようと。
庭の野生種の薔薇だけが途方にくれることもなく、僕らに光を送るのだ。

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