認めてあげなくちゃ
将来不安だなーとか、幸せになりたいなーとか。全人類を絡めとる欲求に、私ももれなく足元をすくわれている。
不安に目がくらんで、お金欲しいな!とか、結婚しといたほうがよさそうだな!とか、普通に思ってしまう。あられもないけど、思ってしまうんだから仕方ない。
でも分かっている。年収や世帯は本質じゃない。この不安の本質は、「この先にいる私は笑えているのか?」である。
笑えているなら、形式は何でもいい。貧乏でも、一人でも。自分で自分の人生を認められるなら。
そんなこと、私が言うまでもなくどこかで聞いたことがあるような話だ。だけどこの感覚を克服して「わたしは幸せだ!」って言えてる人って、いるけど、全員じゃない。
ずっと何かに不安だったり、不幸せを受け入れたりして生きている人もきっと多い。今の私は「不安」の人間だと思う。この生き方、私にはちょっと苦しすぎて、今後ライフイベントの難易度が上がっていったときに乗り越えられる気がしないし、そこまでして生き続けたくないと思ってしまう。
自分を、自分の時間を認めてあげなくちゃ。それができなきゃ、きっと私はずっと不幸だ。
私は高校や大学の私を認められていない。
もっとできたことがあった気がする。
時間の使い方を間違えた気がする。
高校時代、毒舌の友人に「そんなに勉強に時間かけてるのに、なんでその成績なの?」と言われたことがある。
自分次第で突っぱねることもできるはずの言葉なのに、私は未だにその言葉に勝てていない。当時は当時で、きっと必死に過ごしていたのに、自分が費やした時間があぶくのように消えていった気がしてしまう。
今も同じ轍を踏んでいる気がして、すーっと不安になることがある。
この時間の使い方の先で、私は笑っているだろうか。
あれもこれもしてない!と、泣いてしまわないだろうか。
今の生活を見返した時、笑えない要素、泣ける要素はいくらでもある。
だからなるべく改善したいけど、今は今で必死な最善解なんだよ、とも思う。
これを選べば、あれは捨てなければならない。その時に、あれを思って泣いていたら、これのありがたみが霞んでしまう。
認めてあげなくちゃ。
選ぶもの、捨てるもの。かけた時間、諦めた可能性。
捨てたもののことを誰かに指摘された時、ちくりと感じる心を捨てるのはかなり難しいと思う。
だけどその分選んだものを認めなくちゃ。後から認められるような時間にしなくちゃ。
今すぐにそんな強さ身につけられる気がしないけど。でもきっと、このテーマに沿って生きた私は、笑っている。