個人日記。🌟気候と衣類と食事と体調。🌟

2023年08月21日 初回記録

お盆が終った。
プランデミックまでのお盆は、多かれ少なかれ子供の頃からあった、親類が集まってくる法事~分家の自分の家だけの法事~私が主になってするお盆へと規模は小さくなっていた。
それが、プランデミック以降は、SNSの情報のお蔭で私達の認識が全く異なるものへと変わるにつれて、少なくとも私の意識は異なる少数派の認識に確信を持った。

そして、これまでは外側に向きがちだった行動を自分軸にするように気をつけるようにした。

昨年と今年のお盆参りは中止にして、自宅で済ますようにした。
プランデミックの間に色々と状況が変わったせいもあった。

今年は仕事も少し趣向を変えた。それに伴い周りにいる人たちも必然的に刷新された。

どこに重きを置くべきか。

私にとって、精神的・肉体的・物質的・経済的、何に恵まれているか、何に不足しているか、どれを我慢できるか、できないか、を、自ら選ぶともなく自然に割り当てられてきた感じで今がある。

本当は意識的に選んでいたのだろうけれど、その意識の一部か大部分は、無意識の意識と言えるかもしれない。

2~3年前なら・・・10年かもっと前なら、到底見向きもしなかっただろうし、向き合えと言われたら逃げ出していただろうことを、今年は挑戦することになった。私にとって長年ずっとハードルの高かった、向き合うことのできない暑くて高い壁を、突破すべくミッションが今年は存在していた。2023年。


以前の私は、
1月はお雑煮 1/7 七草がゆ
2月は節分参り 福豆 豆まき
3月はひな祭り 雛あられ (お雛飾り)
  その前後に お寺の行事の撮影とお手伝い
4月は 家族の行事
5月は 祇園祭のお囃子を練習する音に、初夏の到来を思い出し

7月は 宵山と17日の山鉾巡行を見て。
8月は お盆参りと少しのお供え物準備と、大文字五山送り火の拝観で夏を終えていた。

そんな諸々の事も、このプランデミックの間に考え方が少し変わり、定着していた意識がズレ始め、、今は以前とは異なった感覚と認識で定着し始めている。ズレていた部分は、周波数がブレている状態だったし、私自身の認識も、肉体的な周波数もぶれていて、考えている事、思っている事、している事(行動)にもずれやブレがあった。

それが、多少は収まってきたのがこの夏でした。



@kyoto_np

【お知らせ】 「五山送り火」の様子をYouTubeチャンネル「京都新聞TV」でライブ配信! ▶ https://kyoto-np.jp/_dTZ0JzA(外部サイトに遷移します) 京都新聞本社屋、白川通今出川のビル屋上の2地点から配信します(点火は20時ごろから)。 #送り火 #五山送り火 #大文字 #ライブカメラ 午後4:00 · 2023年8月16日 · 10.1万 件の表示



@kbskyoto_web

📢「生中継 京都 #五山送り火 2023」間もなくOA✨

昨年3年ぶり全点火🔥 先祖の霊を送る美しい伝統の火を完全生中継

#大文字&#船形 からは点火の瞬間をリポート🎤
#宮津灯籠流し の中継も🕯 特別放送席は
#清浄華院 ゲストは #名取裕子 さん 📺
きょう午後7:00~ お楽しみに!!

午後5:31 · 2023年8月16日 ·

https://twitter.com/kbskyoto_web/status/1691729305569808544?s=20



毎年季節の変わり目に、衣装替えをしていたのが

、いつの頃からか、あまりしなくなった。暑さ・寒さに気付いたらそれに必要なものを少しずつ出してきてを繰り返し、最終的に衣装替えをしたのと同じようになっていた。

この所毎シーズン、前は何を着ていたかな?と、考えてしまっていた。
タンスや衣装ケース、保管用に使っているスーツケースなんかに、どの服を入れているのかその一つ一つをもう覚えていなかった。

とにかく忙しすぎる日があって自分の時間を取れない時があったのを思い出す。ふつうならそれでも元々の生活リズムというものを取り戻すのだろうけど、それすら出来なくなるほどの怒涛の日々があった。それでも、今となっては学んだというそれだけの存在になっている。

それだけと言っても、けして見過ごすことのできるものではなくて、そこから自分にとって大事なものは何だったか、真実は何かを見定めるいい機会だった。長い目で見ると、人間性や魂の成長を助けるためと言えるかもしれない。


銀河連合からのメッセージを読んでいると、
明かに宇宙のセントラルサンからの強いエネルギーや、バイオレットフレームなどが、地球人類のDNAの変革に影響を与えているというのが、嘘や作り話に思えないのを実感している。

個人的には、紫外線に強くないので、日中の陽射しはものの10秒で痛みを感じる。それだから、出来る限り避けたり、何か物質的な物を使って遠ざけるようにしていた。

それが近年、もっと紫外線の下に出歩く機会や時間が増え、今年は一段とそれが増した。
勿論対策も講じたつもりだったが、海外にいた時のような厳重な対策をするのは日本の気候では無理があり、別の手段をとる事にしていた。


祇園祭の頃の気温は、全国で39度近くを記録する炎暑だった。
京都市内でさえ38度前後を記録していた。
今年、こんな日の日中に外出することは久しぶりだったし、祇園祭でさえ、プランデミックの前は数時間写真を撮りに行った位だった。

それよりも長い時間外にいるなんてことは、私にとっては自〇行為にすぎないほど大きなことだった。

いつだったか・・LAに行った時、日本とほぼ同じ緯度で気温も安定していたので安心して夕方買い物に出かけたら建物の中に居たのにガラス越しに浴びた紫外線に日焼けを感じて、帰宅してから日焼けの痛みで眠れず2~3日外出できないほど寝込んだことがあった。それで夜に公衆電話を探して日本にいる母に電話をして高価なサプリメントを送ってもらった事があった。

AUに行ったときもインドネシアに行った時も、ニンジンジュースを持って行った。勿論サプリメント持って行ったし、赤道直下のインドネシアでは、最初窓のある部屋を用意してくれていたが、あえて窓のない部屋に変えてもらっていた。そして朝起きたら全身にローションと日焼け止めを塗って長袖を着ていた。

周りからは暑苦しく見られていたが、紫外線を受ける体の痛みに比べると仕方のないものだった。日焼け対策に関してはその位重要事項だった。



そんなこんなで、多忙になり過ぎた仕事をしていては家がおろそかになるどころか、自分も家族も助けることが難しいと判断して、そろそろした仕事をしようとしていた。そしてその基礎も作り、家族も助けようとしていた。その矢先にプランデミックが始まった。

1年くらいで終わると思っていた。トランプ大統領が2020年6月14日に一年で現在の医療体制を崩壊させると言い、メラニア婦人も5月には富と健康の恩恵を受け取れると言った事がその理由だった。

その頃までは、
そろそろした仕事に切り替え、家族のケアも落ち着いたら、自分の時間も作って自分のしたかったことをしようと考えていた。
この事は、また別記しようとおもう。


気候と衣類と食事について。


今年は静かで軽やかな波に乗せられて、あれよあれよと思わぬ場所に送り込まれている。そんな現象が起きている。生まれて初めて体験することが、何度も起きている。これをしようとか、こんなことがしたいとか、これまで考えた事がなかった事なのに、そんな所に導かれていて、その度に新たな気づきや発見、それらの認識をしていて、私自身、死に急ぐより長生きはするものだと最近思う事があった。


さて、
夏が来て気温が上昇し、それに伴い体温を発散させるために薄着になりますが、私の場合は薄着になると太陽の光線・太陽光熱を直に浴びるのに近づくためにUPF50のラッシュガードを着たりしていましたが、これだけでは到底追い付かず日焼けしてしまった。

全身にローションやサンスクリーンを塗るのも、湿度の高い京都ではベタベタになるし、日本で売っている製品はどれも小さなチューブやボトルですぐになくなる割に高価で、それも効き目があればいいが最近のはどれを使っても効果があまり感じられないので別の方法をとるしかなかった。

別の対策とは、
とにかく日陰を作る事である。
春頃には、上着(コート)を入れて3~4枚着ていたのを、夏は上着がない分一番上に着るものの下に、着こむという手段をとった。
祇園祭の頃は、一番上に着るものの下に3枚くらい来ていたと思う。URF50のラッシュガードの半そでと長袖Tシャツと、同じくラッシュガードの冷感素材のジップジャケット。それでも物凄く暑くて日焼けもして、なんだこれは?効いてないぞ?と思った。

それでもUPF素材はないよりましと思い何度か着ていたが、それだけでは足りないと思い、半そでのラッシュガードの代わりに綿素材の半そでに変えた。

その後、手作りの日よけ用キャミと綿素材の長袖Tシャツを追加することにした。すると暑さに対しては少し和らいだ。その時で一番上に着るものの下に、5枚着ていた。暑さ・熱さより痛みが和らいで個人的にはありだった。


8月、台風7号が来ると騒がれた。
京都市にやって来る二日前は、下に4枚、5枚着ていた。それでも日焼けはしたので、台風が来る日にもし来なければ6枚着るつもりだった。でも台風が来て空は曇り、暴風雨がやって来た。太陽光は目で追えるくらい早く流れる雲で遮られ、自ずと気温は下がったので、6枚はやめて5枚に留めた。
暴風雨と雨の湿気で涼しかった。

しかし、紫外線の強度は抑えられることはなく、肌の延焼(炎症)は次の日に目に見えてきた。朝起きると赤く腫れあがった肌があった。
ぁぁ 無理が生じた。そう思った。もうこれ以上は頑張れないし、頑張ってはいけないな。そう思った。ここまで自分を犠牲にしてはいけないなと思った。

もし父や母がいたら、やめとけ、もう行かんとき、というのが聴こえる気がした。
そうやな。そうするわ。心の中でそう返した。

先週末、町内の地蔵盆があった。
今年は役をしているので、準備も手伝ってほしいと連絡を受け、何の役にも立たないものの参加だけしました。月二回のお花の交換も2.3日前に済ませておいたのでそれだけは気が楽だった。でも、お盆の時だけ特別なお花を花屋さんに注文している事を忘れていて、いつものように見立てたお花にちょっとお盆用のアレンジして供えていたら、町内会長さんは頼んだ花をもらいに行かれて、先に用意していたお花と差し替えられました。
まぁ、それは仕方なかったので、余分に余った最初のお花は持って帰る事にした。そうでなければ、誰かが持って帰り、結局捨てられることになったからだ。まだ咲いているのにかわいそうでもったいなかった。

丁度、今年も自宅からお寺へのお盆参りは中止していたから、持って帰ったお花を生け直して、お寺の自分ち用のお供えにすることにした。
午後から活け直して夕方のお寺の閉門までに間に合うように出かけた。
4時ごろについて、お花を供えて、お参りして、4時半にはお寺を後に出来た。


町内のお盆行事は午前中で終わったものの、それが分かっていたから上着の下に沢山着ず、4枚くらいで参加してなるべく軒先の日陰にいたけど、右肩に陽射しが当たっていたので後になって右肩がヒリヒリしだした。

でも、お寺も行けて、その前に家族に荷物も送れて、

もう暫くは自分のことと家族のこととに没頭できると考えていた。

それでも、それ以外の所から声はかかる。
そして、一昨日、夜に電話があった。
急遽来られなくなった人が出たので、出てもらえないか。

とりあえず、必要な時間を確認した。日中朝から夕までは、日焼けがひどくなったので無理だと伝えると、お昼まででいいとのことで承る事にした。

でも、昨日は37.1度ほどあり、思った以上に一秒一秒が熱かった。
そして、衣類は、一番上に着るものの下に、6枚着て、全部で7枚着ていた。
(綿キャミ、絹キャミ、半そで綿Tシャツ、長袖綿Tシャツ、長袖フード、URF長袖フード)。
それから、7枚目の上にも1つ追加した。

がっつり7枚で覆っている部分はかなり楽だった。


追記:(
思い出したことを追記します。
昨日、来られなくなった人の代わりに急遽行くことになり、朝車を走らせた。運転しだすと、右肩の古傷がズキズキと痛み始めた。

道路は心配をよそに順調に流れて予定時間に十分間に合った。
それでも、古傷が痛んだ。

そうか、。
以前、古傷が毎日痛くて家で休んでいたいときに、無理をしてでも恒例のお出かけに着物を着ると、とたんに痛みが消え去った事があったのをもい出した。私が好きな事をする痛みは消えた。

今痛みが出るのは、やめておけという体からのメッセージなのだろう。
わかった。もうしないようにする。運転をしながら、自分のこれからのことを考えようと思った。


食・・。


祇園祭の頃は、今年の経験の中で一番ハードだったと言ってもいいかもしれない。というか、今年経験することは、生まれて初めてのことが多く、意図しない事が多かったので、それらをする度にハードだと言えた。

そんな中、祇園祭の頃が一番ハードだったと思うのは、休憩をとる時間やタイミングがなかったので、トイレも食事もとれなかった。勿論おやつの時間もなかった。最初は330mlのエビアンのペットボトルに入れたナチュラルウォーターを1本持っていただけだった。これで丸一日が持つわけはなかった。

とりあえず、前日の晩に人参ジュースを飲んでおいた。出かける前の少し飲んだかもしれない。帰ってからも飲んだと思う。

太陽光や強いエネルギーで、初日と次の時は手足に電気が流れるみたいにビリビリした痛みと感覚が数時間~半日続いた。

その時に電解質と言う言葉が浮かんで、塩と水分を採るようにと考えたし、実際持って行ったのだが、準備万端に持って行った時早々に落として使えないまま一日を終えた。落とした塩とそれを入れていたポーチは、拾ってくれた人がいて最後に戻ってきたが、その日は使えなかった。

色々な事があって、色々なシーンが気付きや試練のようなときになった。きっと私一人だと絶対に避けていた事を、周りの導きがあったお蔭で乗り越えられたと思っている。感謝している。

祇園祭の時期、屋外で過ごす時間が増えた。最初の日は日干しになりかけた。ほぼ日干し。次の時は、強い電気風呂で電気治療みたいだった。干物になる所だった。それらがあったので、その後は比較的に覚悟が出来た。

とりあえず、スイカを食べたいと思った時に限って、売り切れだったり大きいひと玉とか、高価なのしかなくて買えずじまいだった。


先日の8月の7号の台風の時も、一滴も雨が降らず、風もなく、すっかりなべの中で煮えきった私がいた。お友達に煮えましたとメールをした。
スイカに漬かりたい。キンキンに冷えたスイカにザブンとハマりたい。キンキンに冷えたスイカ風呂。そんなことが繰り返し頭の中に出ていた。

次の時も弱火で中迄直火が通っているようだった。
そして台風風に癒されたと思っていたら、その後肌に炎症が現れて、もう無理だと気づかされた。

お地蔵さんのお花を見に行き、その後家族に送るものを買いに行った時、中玉のスイカの半分サイズの手頃な値段のがあった。冷蔵庫に入るか心配だったけど、その分沢山食べればいいと思い、迷わず買った。

帰ってすぐに食べられなかったけど、次の日には半玉の5分の一位をカットして食べた。水分が多くてお腹がいっぱいになった。次の日、肌が楽だった。次の日も同じくらい食べた。
水分でお腹がいっぱいになったら、他のものが食べられなくなるから、その次の日はスイカはちょっと休んだ。代わりにトマトと人参ジュースは飲んだ。

一昨日の夜急遽連絡が入って、昨日行ってきた。
初めて行く場所だった。地図を見ると近くに駐車場を探せなくて、近くにいる知人に連絡して教えてもらった。

帰りに知人の所で、お地蔵さんの役で頂いたお下がりを一緒に食べようと持って行くと、ご飯を用意してくれた。ちょうどその他にも頂き物のお寿司があったのでそれも合わせて一緒に食べてきた。

知人は冷たいお蕎麦を用意してくれた。おつゆの入った器に氷と刻んだねぎを浮かべて食べた。スイカだけでお腹が膨れる日が2.3日あったせいか、1,2日前から急に太ももがだるくなるのを感じるようになった。
足がだるいなんて、何年ぶり?くらいに久しぶりだった。

そして、全部で7枚着て汗をしっかりかいて、太ももの前の当たりがときどきだるくて、音は慣らしていないけど、ガラスの器の中でお箸を回すと、カランと音をたててなりそうな氷を見て、音を立ててすする訳ではないけど、音を立てて口に入れるそばを想像し、子供の頃に夏休みに田舎の家に行き琵琶湖で朝から夕方まで泳いで遊んだあと、全身がだるくなったことや、田舎の家の円卓で、昔からある小さなごはん茶碗でご飯を食べたことや、夏の暑い日にクーラーの利いた部屋で過ごしたあの感覚・記憶をふと思い出した。

なんか、この太もものだるさと、お蕎麦の冷たさの感じが、子供の頃の記憶と繋がって、懐かしさを感じた。この感覚は 大事な感覚だと思った。書き記し残そうと思った。

なんか懐かしい。そう言った。

とりあえず、今年の夏、それから、日焼け対策の衣類、食事、はこんな感じだった。

おしゃれなファッション、ご馳走とはかけ離れている。

洋服の数は少なくないが、今年着ている種類はぐっと減った。
見た目より、機能性だけが大事になった。

それでも、お盆の行事の時に浴衣を着て提灯を持って歩く人たちを見て、自分も着物を着たい思った。そんな気持ちはまだ色あせてないと確認できた。

新時代、私はどう過ごすのだろうか。



少しずつ意識が変わり、目醒めに拍車がかかり、一巡してくると、熱かったものの見方が冷め、色褪せて、また色づいて、熱を帯びてくる。。。そんなサイクルが私の中で出来てきている。

でも、以前と違って、もう少しこの流れに任せてみようか・・・と思う気持ちも残っている今日この頃である。

しばらくは、人参ジュースとトマトとスイカとサプリメントに頼るだろう。
そして、日焼け対策に作ったマスクは使う前になくしてしまったので、また作れればと思っているが、正直面倒でもある。

でも、ないと日焼けがひどくなるので、やはり作るしかないのかもしれない。ちょっとやるせない気持ちが残る。

今日はこの辺りで、備忘録を終えようと思います。


めも
https://www.clinicfor.life/articles/beauty-010/  


お読みくださり、ありがとうございます♪

AOR@白玉城より。

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