(小説)風の放送局(十)
(十)夢(山崎ハコ 一九八〇年)
一九八〇年×二〇一〇年の八月十五日
この日海雪は夜明け前、空に星がまだ残っている時刻にやって来た。少しずつ夜が長くなり夜明けが遅くなっているとは言え、まだ午前五時前。ラジオだってまだ深夜放送の最中だった。
海雪が風の放送局のお喋りより先に海辺に現れるなんて、海雪に会って以来初めてのこと。少年は咄嗟に胸騒ぎを覚えた。しかし言葉には出さず、少年は穏やかに海雪を迎えた。
「海雪さん、今夜は早いね」
「うん、ちょっと眠れなくて。早く出て来ちゃった」
海雪は何でもないような顔で、笑い返した。
「きれいだね、星空」
海雪は空を見上げながら、感嘆の声を漏らした。降るような星々が、まだ暗い海辺の空一面に瞬いていたから。
「今にも星がこの海一面に、降り注いで来そう」
「うん、そうだね」
ふたりは砂に座ると膝を抱え、潮騒をBGMにじっと黙って星空を見上げた。
やがて少しずつ夜が薄らぎ、藍色の大気が空と海とを包み込んだ。それは透明な余りにも透明な、すべてを溶かしてゆくような青のベールだった。星たちの瞬きはその青さの中に吸い込まれ失われゆき、夜もまた音もなく去っていった。
気が付けば、海辺は朝。しかし海はまだ眠そうに、ひっそりと微かな波の寝息を奏でているばかり。
「きれいだね、ほんとに。何もかもが透き通ってて。これが、世界なんだね」
世界……。海雪の言葉のひとつひとつが少年の胸に響いて、少年は胸が詰まりそうだった。
「うん」
「早起きして来て、良かった」
泣きそうな顔で海雪が呟いた。でもそれは確かに、感動の涙だった。だから少年は笑い返すことが出来た。
「そうだね」
早起き。でもどうして海雪さん、今日に限って、こんなに早く……。少年は再び胸騒ぎを覚えた。
深夜放送はいつのまにか終わり、替わってCOUGARの周波数を風の放送局に合わせれば、いつもの耳に馴染んだ風の放送局の声が流れて来た。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月十五日。今日も朝陽が眩しくて、世界中が澄み渡るような快晴です』
世界中が、快晴ですかあ。快晴はいいけど、それにしても毎日暑いんだけど。何とかしてよ、風の放送局のおっさん。ふーっ。
ため息を吐く少年に、くすくすっと海雪が笑みを零す。
でもやっぱり胸騒ぎの、今朝の海雪さん。
けれどその訳を、少年は確かめられずにいた。そわそわと落ち着かない少年を置き去りに、海雪は立ち上がり波打ち際へといつものように歩を進めた。サンダルを脱いで足を波と遊ばせながら、海雪は振り返った。
「実はね。あと数日かなって、そんな気がしてるの」
「えっ」
あと数日って、何が……。
吃驚した少年は思わず立ち上がり、呆然とした顔で海雪を見詰め返した。
「だって、何となく分かるの。自分の命でしょ、だから、わたし」
だから、わたしって、そんな。自分の命ってことは……。じゃ、海雪さんはあと数日の命だって言うの。
少年は確かめたかったけれど、怖くて言い出せなかった。
「海雪さん」
「なーに」
「俺」
海雪をじっと見詰めていたかと思うと、突然少年は海雪のいる海に向かって走り出した。そして海雪が立っている波打ち際を越え、そのまま真っ直ぐ、少年は海の中へと入って行った。
「何してんの、きみ」
今度は海雪の方が吃驚。
「こっちに戻っておいでよ」
呼び止める海雪に、けれど少年は真顔で答えた。
「俺、このまま海に入って、死ぬから」
「えっ、なんで」
絶句した海雪に、少年は続けた。
「俺が海雪さんの代わりに死ぬから、その分海雪さんは生きてよ」
「何、それ」
海雪は唖然として、少年を見詰めた。
「何、ばかなこと言ってんのよ。そんなこと、簡単に出来る訳ないでしょ」
「そんなこと分かってるけど、俺どうしても海雪さんの身代わりになりたいんだよ」
「きみ」
しばしふたりは見詰め合った。海雪が沈黙を破った。
「ありがとう。きみの気持ちは、すっごく嬉しい。でも、きみを身代わりにする訳にはいかないから」
「海雪さん」
「きみは、きみの人生をちゃんと生きなきゃ、ね」
海雪の瞳には、涙が滲んでいた。少年もまた、込み上げる涙を懸命に堪えていた。
ゆっくりと海雪は、海の中へ足を踏み入れた。海雪のワンピースが濡れてゆく。驚いた少年は、そのまま海の中で立ち止まった。
「海雪さん、来ちゃ駄目だよ。服が濡れちゃうよ」
けれど海雪は歩みを止めない。
「ありがとう、本当にありがとう。きみの気持ちは、痛い程分かってるから」
「でも」
「だから。戻ろう、こっちに」
ゆっくりと歩み寄ると、海雪は少年の掌をつかんだ。
「捕まえた」
どきどき、どきどきっ……。少年の手から海雪へと、少年の鼓動が伝わった。
どきどき、どきどきっ……。
少年もまた、海雪の鼓動を感じた。それはとても暖かかった。
海雪の手に曳かれ、少年は波打ち際まで戻った。
「あーあ、靴びしょ濡れじゃない。海には、靴を脱いで入ろうね」
海雪は陽気に笑ってみせた。そしてふたりの手は、いつのまにか離れた。
どきどき、どきどきっ……。
少年の手の中には、海雪の鼓動の余韻がいつまでも残っていた。
濡れた靴を脱ぎ捨てると、少年は砂の上に座り込んだ。海雪もまた、横に腰を下ろした。
「でも俺の人生なんて、ほんと全然意味ないんだよ。大人になったって、何にもいいことなんかないし、平凡なサラリーマンとかなってさ、毎日毎日満員電車に揺られて、あくせくと働いて働いて、年取って、そいで死んでゆくだけ。あーあ、詰まんね、俺の人生なんて最低」
「わたしだって同じだよ、もし長生きしたら」
「でも海雪さんには、いろいろとやりたいこと有るでしょ。歌とか、踊りとか」
「きみにだって、有るじゃない」
「ないよ、俺なんか、何にも」
「嘘。きみには、詩があるでしょ」
「詩」
「そ。ほら、空は青いし、海はひろーい。波の調べは絶え間なく続き、夜になれば星の瞬きが宇宙の闇を照らしてくれる。さっき一緒に見たでしょ、あの夜明けの美しさ。書いても書いても書ききれない程無限に、この世界は美しさで満ちているのよ」
「それは、そうだけど」
「詩を書いて、歌を歌って、思い切り踊って、あー人生はなんて素敵なんだろ。そしていつか、素敵な女の子とめぐり会って恋をして、例えばわたしみたいな、ね。えーっ、何笑ってんの、笑うとこじゃないでしょ、きみ」
でも海雪さんには、その、いつか、がもうないんだよ。
少年は俯き、砂を見詰めた。海雪が立ち上がった。
「ね、踊ろう」
手を差し伸べる海雪に頷き、少年も立ち上がった。BGMは海雪が口遊む、男の子のように。少年の手につかまりながら、海雪が踊り出した。
「海雪さん」
「何」
「海雪さんは、治療、ちゃんと受けてるの」
「えっ」
突然の少年の問いに、海雪は動揺した。踊っていたその足が、ピタリと止まった。
「風の放送局の娘さんは、治療を辞退したんだって」
少年はCOUGARを指差しながら言った。すると海雪はかぶりを振って答えた。
「実はわたしも、受けてないの」
「えっ」
少年は海雪の顔を見詰めた。ふたりの手が離れた。
「どうして、海雪さん」
「どうしてって」
海雪はじっと海を見詰めた。
「どうして受けないの。少しでも可能性のある方に、やっぱりかけた方がいいよ、絶対」
けれど海雪はしばらく沈黙した後、かぶりを振った。
「でも、わたしは受けたくないの、どうしても」
再び海に目を向け、海雪は海に語り掛けるようにそして続けた。
「わたしは、自分らしく生きたいの。そうしなきゃって、わたしの心が叫ぶの、わたしの魂が」
心が叫ぶ、魂が……って。
海雪の言葉に、少年は圧倒された。
「海雪さん」
「あっ、ごめん。つい興奮しちゃって」
海雪は心を落ち着かせながら、少年に続けた。
「わたしね、同じ病院に入院していた、或る女の人から教わったの。自分らしく生きることの大切さを」
「或る女の人」
「うん」
海雪は頷きながら、思い返した。その女性と共にした時間、交わした言葉の数々を。
「その人は、乳癌だったの。まだ二十代の人で、乳房を摘出する手術を受けるかどうか、最後まで悩んでた」
乳癌、乳房を摘出する手術って……。やばい、俺には全然分かんないや。
少年は戸惑いつつも、海雪の話を黙って聴いていた。
「でもその人、最後は手術を断ったの。今年四月の初め、そして退院していった。どうして手術を受けなかったのか、わたしはその訳がどうしても知りたくて、その人が退院する前日の晩尋ねたの」
波の音が聴こえ、COUGARの中で風の放送局が何か喋っていた。けれど少年は海雪の話に集中していた。
「そしたらその人は、自然のまま、あるがままのわたしでいたいから、そうしたの、って答えたわ」
「自然のまま、あるがままの……」
「だってわたしの命、わたしの心と体は、この美しい宇宙からもらった、わたしへの大切な贈り物なのだから。たとえちっぽけな命であっても、朝陽のひとかけら、雨のひとしずく、舞い散る落葉一枚、野に咲く花の花びら一枚、雪のひとかけら、ひとかけら、そんな命の材料をせっせせっせと掻き集め、この宇宙が一生懸命こしらえてくれた、わたしというひとつの命なのだから。だからわたしは生まれたままの姿で、この清らかな宇宙へと帰ってゆきたいの」
「清らかな宇宙へ……」
「そう。だからわたしは、手術を断ったのよって、笑いながらわたしに話してくれた。とってもきれいな、笑顔だった」
「そうだったんだ」
海雪の顔を見詰めながら、少年は頷くしかなかった。
「そして今年四月二十日、わたしの脳に腫瘍が見付かったの」
「えっ」
「詰まり三度目の再発。ああ、やっぱり駄目だったんだ、だったらもうお終いじゃないって、わたし落ち込んじゃった。自暴自棄になって、病気を恨んで憎んで、みんなを、お父さんもお母さんも、見舞いに来てくれた友だちも、みんなに嫉妬して。世界を憎んで……」
「海雪さん」
「でも何とか落ち着いて、少し楽になった時、わたしふっと思ったの。もうこれ以上、病気と闘うのはやめようって。もうこれ以上、わたしの命を傷付けるのはやめにしよう。だって、宇宙、銀河、太陽、月、地球、大地、海からもらった、宇宙の、そしてお父さんとお母さんの想いが一杯に詰った、大事な、大事なわたしの体、わたしの命、なのだから。もう痛め付けたくない、もういやだよ、生まれたままの姿でいたいんだって、わたしの心と体のすべてが、叫ぶの。だから……。だから、わたしを大切に、残されたわたしの時間を、わたしらしく生きようって、決めたの」
やっぱり波の音がしていて、COUGARの中では風の放送局が何かを喋っていた。少年は赤いCOUGARの色を、ぼんやりと眺めた。
「うん。分かったよ、海雪さん」
少年は小さく頷いた。少年の目に、朝陽と波の煌めきが眩しかった。
「そんなに、悲しそうな顔しないで」
「だって」
海雪は俯く少年の横に立ち、少年の肩にそっと腕を回した。海雪の腕は柔らかく、手のひらはあったかかった。
どきどき、どきどきっ……。
海雪の鼓動が腕と手を通して少年へと伝わり、少年の鼓動を震わせた。それから海雪はもう片方の手の指を伸ばし、少年の頬を撫でた。なぜならその時、少年は泣いていたから。少年の頬を伝い、止め処なく涙が零れ落ちていたから。
「ありがとう。きみなら絶対、分かってくれると思って話したんだよ」
えっ。
顔を上げ、少年は海雪を見詰めた。
「だって、わたしたち、仲間でしょ」
「仲間」
「ほら、詩人仲間」
「あっ、そっか」
俄かに少年が笑った。海雪も嬉しそうに笑い返した。丸で姉弟のようなふたりのシルエットだった。
「もしわたしが、この世界からいなくなっても、わたしの魂はね、形を変えて、この世界に残るの」
「魂」
「そう。わたしの想い、夢、憧れ、願い、望み、祈り、そしてわたしのすべて……。このわたしという小さな世界から解放され、わたしは、風になるの」
「風に」
海雪は、にこっと頷いた。
「寅吉みたいに」
「うん、その通り。冴えてるね、きみ。さっすが」
ふたりの耳に、風の放送局のお喋りが聴こえて来た。
『生きることと死ぬことは、結局おんなじことなんじゃないかって、そんな気がするんだよ。確かに死ぬ時は、辛く苦しいかも知れない。みんなと別れてゆくことは、確かに悲しいことだ。でもそれは肉体としてこの世に生まれて来た以上、誰にも避けることの出来ない、いつかは必ず訪れる定め。だけど死ぬっていうことは、それですべてが終わる訳じゃなくて、ただ生き方が変わるだけ。自分或いは肉体というさなぎから脱皮して、そして宇宙に帰り、宇宙の一部となって生き続けてゆくってことなんじゃないかな。だから死んだら、自分より前に死んだ懐かしい人たちとだって、この宇宙の何処かで再会出来るんだよ』
おいおい、本当かよ。この人の話、何処まで信じていいんだろ……。
苦笑いを浮かべる少年に釣られ、海雪もふっと笑みを零した。そんなことなど知らず、風の放送局は続けた。
『では次の曲は、山崎ハコ、夢、です』
夢。
山崎ハコ自体は知っていたけれど、少年はその曲は知らなかった。海雪は知っているのか少年の肩から腕を離すと、COUGARの曲に合わせて踊り出した。その額には直ぐに汗が滲み、あっという間に体中汗びっしょりになっていた。
大丈夫かな、海雪さん。
少年が心配した通り、曲が終わるより先に、海雪は足がもつれ倒れ込んだ。
「海雪さーん、大丈夫」
少年は直ぐに駆け寄った。けれど海雪は大の字になって、そのまましばらく砂の上にじっとしていた。
「ふう、気持ちいい。このままわたし、潮騒の中に溶けてしまいたい。ありがとう、きみに会えて、本当に楽しかったよ」
楽しかったよって、行き成り、なんだよ。それに過去形じゃないか。ありがとう、なんて、これでもう会えなくなるみたいじゃないか。少年は不安で不安で、叫び出したい程だった。
風の放送局が波の音に変わると、海雪は何事もなかったように立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行くね」
「えっ」
海雪は少年を置き去りに歩き出した。少年は遠ざかる海雪の背中に、叫ばずにはいられなかった。
「また来てくれるんでしょ、海雪さーん」
「うん。大丈夫、大丈夫」
海雪は振り返り、手を振りながら答えた。少年も大きく手を振り返した。そして少年は、海雪の背中をいつまでも見送っていた。その背中がどんどん小さくなり、やがてプラタナスの並木の陰に隠れて見えなくなるまで。
少年の肩にはまだ、海雪の腕の柔らかな感触が残っていた。
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