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(小説)風の放送局(十一)

(十一)いとしのエリー(サザンオールスターズ 一九七九年)
 一九八〇年×二〇一〇年の八月十八日

 最後に海雪に会ってから、既に二日が経過していた。少年は心配でならなかった。
 もしかしたら、もう……。
 しかし少年の心配を払い、海雪が海辺に現れた。しかも日付けが変わった、八月十八日午前零時。
 良かった、海雪さん。でも、どうしてこんな時間に……。
 少年は直ぐに不安を覚えた。今までこんな夜中に、海雪が来たことなど一度もなかったから。
 海雪は一歩一歩、ゆっくりと近付いて来る。空は晴れ渡り、夏の星座が饒舌に瞬いていた。
「海雪さん、大丈夫」
 海雪は少年の前で立ち止まると、無言で頷いた。
「こんな時間に、珍しいね」
 けれど海雪は矢張り、無言で頷くばかり。それに足許が覚束ない様子で、事実海雪は直ぐに眩暈に襲われ、ふらふらと倒れそうになった。
「海雪さーん」
 少年はさっと海雪の両腕をつかまえ、海雪を支えた。
 どきどき、どきどきっ……。
 伝わって来る海雪の鼓動は、心なし速く激しく感じられてならなかった。
「しっかりして、海雪さん」
 しかし海雪はやっぱり、ただ黙って頷くばかりだった。加えて息遣いも荒々しく忙しなかった。少年はそんな海雪を見詰めながら、海雪を支え続けた。
「ごめんね。もう、あんまり喋れないんだ」
「えっ」
 ようやく口を開いた海雪の言葉に、少年はショックを隠せなかった。しかも海雪の声は弱々しくしゃがれてもいた。動揺しながらも少年は、頷きながら答えた。
「無理しなくていいから」
「ありがとう。ごめん、座らせてくれる」
「あっ、そうだね」
 少年の手につかまりながら、海雪はゆっくりと砂に尻を付けた。海雪から手を離すと、少年も急いで海雪の横にしゃがんだ。
「ごめん、立っているのもきつくて」
「うん」
 海雪の容態の変化に少年は動揺し、返す言葉が見付からなかった。
「ふーっ、暑い。けど、気持ちいい」
 海雪は目を瞑った。
 目を瞑り耳を澄まし、海の音を聴いているのか、その顔にはくすぐったそうな笑みが幽かに零れていた。
 少年は邪魔しないようにCOUGARのボリュームを下げ、それから祈るようにチャンネルを深夜放送から風の放送局へと切り替えた。しかしまだ放送開始時刻には程遠く、スピーカーから聴こえ来るのはノイズばかり。当然のこととは言え、少年は悔しがった。
 何してんだよ、風の放送局のおっさん。こんな、海雪さんが大変な時に……。
 海雪は目を開けた。
「踊りたいけど、無理だよね」
「えっ」
 少年は海雪の顔を見詰めた。海雪の目はじっと、夜の海を見ている。海を見ていることだけが、唯一の救いであるかのように。
「無理じゃ、ないかもよ」
「えっ」
 笑みを浮かべた少年の答えに、海雪は驚いて見詰め返した。
「俺が支えるから」
「あっ、そっか」
 笑い返す海雪。
「じゃ、お願い」
 よろよろと海雪は立ち上がった。
「うん」
 再び少年が海雪を支えた。海雪は少年の腕と肩につかまった。ふたりは、波打ち際へと歩いた。
「大丈夫」
「うん、大丈夫。ありがと」
 夜の海を目の前にして、海雪は少年の肩につかまりながら目を瞑った。
「ねえ、踊ってるつもりで、いてくれる」
「いいよ」
 少年は笑みを浮かべながら、頷いた。
 だって立っているだけで、今夜の海雪さんには、ただそれだけでもう立派に、ダンスなんだよ、だから……。
「ありがとう」
 海雪はしがみ付くように少年の手をぎゅっと握り締め、男の子のように、を歌い出した。
 海雪さん、大丈夫……。
 少年は心配だったけれど何も言わず、ただ海雪が歌うのに任せた。しかし海雪は直ぐに呼吸が乱れ、発声さえ出来なくなった。歌が途切れた後の沈黙が、夜の海を覆った。
「ごめん、ちょっと休憩」
 うん。
 無言で頷いた後、少年は続けた。
「じゃその間、俺が歌ってるよ」
「えっ」
 驚いた海雪は目を開けた。
「代わりに俺が、歌ってるから」
 うん、分かった。
 少年の言葉に、海雪はにこっと笑みを浮かべながら頷いた。少年は、男の子のように、を歌い出した。少年ももう、歌詞もメロディも覚えていたから。
 海雪はじっと少年の歌を聴いていた、少年の手を握り締めたまま。少年は幾度となく、繰り返し歌い続けた。海雪は立っていられず、砂に座り込んだ。少年も座った。それでも少年は繰り返し、歌い続けた。
 いつのまにか海雪は、目を閉じていた。眠っているのかも知れない。それでも少年は歌うのを止めなかった。見上げれば降るような星々の瞬きが、空にまだ残っていた。耳にはただ、海の音がしていた、ただ潮騒だけが。それから海雪の寝息と鼓動が、どきどき、どきどき……っ、していた。
 海雪が眠っている間、少年はずっと歌い続けた。一晩中、夜が明けるまで。COUGARのスピーカーから、風の放送局のお喋りが聴こえて来るまで。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月十八日。明け方少し、雨が降るそうだよ』
 えっ、雨。やばい、傘とビニール袋忘れちゃった。
 少年は焦った。風の放送局の声に気付いて、海雪が目を覚ました。
 ふたりは黙って、風の放送局に耳を傾けた。でもCOUGARを聴いていると言うより、風の放送局のおっさんと三人で砂浜に座り、仲良く語り合っている。少年は、そんな気がしてならなかった。
 にわか雨。
 風の放送局が言った通り、雨が降り出した。少年は急いでCOUGARを拾い上げると、胸に押し当て両腕で抱き締めた。雨に濡れないよう、必死でCOUGARを守った。その時COUGARのスピーカーからは、サザンオールスターズのいとしのエリーが流れていた。
 いとしのエリーのメロディは、夏の夜明けに似合い過ぎていて、少年は涙が出そうになった。
 雨は直ぐに止んだ。雲間から朝陽が差し込み、海を照らした。
「ありがとう」
「えっ」
 海雪の言葉に少年は驚いて、海雪の顔を見詰めた。
「一晩中、歌って、くれてたんでしょ」
「あっ、ばれてた」
 少年は照れ臭そうに笑った。海雪も少し微笑んだ。
「わたしもちゃんと、夢の中で踊っていたからね」
 夢の中で……。
 少年は、にこっと笑って答えた。
「うん、分かってる」
 すると海雪は改まって、少年に告げた。
「たったひと夏だったけど、きみとこの海辺で出会えて良かった」
 えっ。
「何言うんだよ。海雪さん、急に」
 少年は怒ったように、口を尖らせた。しかし海雪は続けた。
「もう一回、きみの手、触っていい」
「えっ。うん、いいけど」
 少年の手をつかまえ握り締めた海雪は、嬉しそうに笑みを零した。
「不思議ね。きみの手に触れるとやっぱり、どうしても懐かしい感じがして、切なくなるんだけど。何でかな」
「あっ、俺もそう。海雪さんと初めて会った時から、ずっとそう思ってた。懐かしいような、胸が切なくなるような。ほんと、何でだろ」
 ふたりは見詰め合い、そして首を傾げながら笑い合った。
「昔、知り合いだったのかもね」
「昔」
「うん、例えば前世とか」
「前世。あっ、そっかもね」
「あと、未来」
「未来」
「そう。未来でまた、めぐり会うとか」
「未来かあ。じゃ、来世ってやつ」
「うん、そうだね」
 夢中でお喋りするふたりの耳に、風の放送局のエンディングの挨拶が聴こえた。
『それでは、今朝はこのへんで終わりにします。ラストナンバーはやっぱりこの曲、柴田まゆみ、白いページの中に』
 ふたりは黙って、歌を聴いていた。
 歌はやがて終わり、海の音に吸い込まれ消えた。風の放送局もこれにてお終い。
「じゃ、わたしもそろそろ、行かなきゃ」
 海雪はゆっくりと砂から腰を上げ、ふらふらしながらも何とか立ち上がった。少年も立ち上がり、海雪の横に並んだ。
「大丈夫。送って行こうか、俺」
 けれど海雪はかぶりを振った。
「平気、平気。ひとりで、ゆっくりゆっくり歩いてゆくから」
 ひとりで。
 少年は何も言えなかった。
「ねえ、哲雄くん」
「えっ」
 海雪が少年の名を呼んだのは、これが初めてだった。
「わたしね」
「うん」
 少年はどきどきしながら、海雪の言葉を待った。そして海雪は、こう告げた。
「もう、来れないかも」
「えっ」
 驚いたけれど、少年はやっぱり何も言えなかった。
 だから俺の名前、呼んでくれたんだね、海雪さん……。
 少年はただじっと、海雪を見詰め返すしかなかった。
 海雪は、歩き出した。少年は海雪の背中に向かって叫んだ。
「でも、俺、待ってるから」
 びくっとして、海雪が振り返った。
「海雪さーん、俺は待ってるって。ずっとここで、待ってるからね……」
 けれど海雪は沈黙したまま、再び前を向き歩き出した。少年は叫び続けた。泣きそうな顔で、何度も何度もぐるぐると手を回しながら。
「だって俺、海雪さんの、男の子のように、が大好きだから。海雪さんとここで会って、話して、海雪さんのダンスを見て、海雪さんの歌を聴いて……。それから、海雪さんの詩を聴きたいから。だから俺、ずっと、待ってるから。ずっと、ずっと……。ねえ、海雪さーん。いつまでも、ここで待っているから」
 ようやく海雪が、分かった、と言うように小さく手を振り返した。
 そして海雪は、海辺を歩き去った。辺りには海の音だけがしていた、波の音だけが。それがCOUGARのなのか、それとも目の前の海のものなのか、その時少年には何も区別がつかなかった。


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