切実であること
2024.8.6。自宅療養114日目。頭の中にモヤがかかっている。体も重い。暑さのせいか退屈のせいか。それとも先行きの不安を先取りして、不調という言い訳をインストールして考えることを放棄しているだけだろうか。友人と待ち合わせをする。時間になると目の前に現れる。それは間違いなく友人その人だ。そんな風にはっきりとくっきりと、自分の感情は自分の目の前に現れてはくれない。いつも物陰からこっそりこちらを伺っているようだ。声をかけるとサッと隠れてしまう。どうしたらいいものか。
掃除と洗濯を終わらせる。毎日床を掃いているのに一向にゴミは減らない。それは毎日ゴミを生み出していることに他ならない。生きることはゴミを生産することだ。洗濯を干す。黒いシャツをパンパン!と勢いよくはたく。その時に見えるいくつもの白い筋。また石鹸カスが残ってる。これはどうしたら無くなるのだろう。着るときに毎回、濡れたタオルで拭いている。本当に憎たらしい。
多和田葉子『献灯使』を買いにブックオフへ。目当ての短篇があったのだが、プロパーしかなく断念。図書館で借りることにする。今日は足の具合がとてもいい。というか、昨日とはうって変わって絶好調だ。通常時のスピードに比べ、1/3もしくは頑張って半分の速度でしか歩けなかったのに、今日は人の流れを遮らずについていける。一つ段階をクリアした実感がある。痛みはあるが、気にならない程度。ああ、ようやくか!と嬉しくなる。
その後細々と買い物をして、たまにはドトールで休憩。さて帰ろうと立ち上がり進み始めたら、足の具合がよくない、戻ってる。距離的な限界があったのかと落胆する。しかし数メートル歩くと、また楽になってくる。『!』やはりステージクリアできている。そのまま問題なく家まで歩くことができた。明日はどうだろう。
通院用のカバンを整理していたら、蟹の親子『脳のお休み』が出てきた。ここにいたのかと読み始める。何だか読みにくいが、おそらく自分の日記もそうなんだろうなと思う。
そんなフレーズに同意する。全てを書き残すことはできない。考えていたら筆は止まる。垂れ流す、といったら語弊はあるが、自分の場合はそれが近い。読みにくいと思いながらも読むのをやめられない。ユーモアを感じる部分もあるが、コアな部分にある切実さがだだ漏れていて、それを好ましく思い始めている。ただの不幸話とかではなく、自分にとっての切実な問いが見える文章。サンボマスターの山口隆が何かのインタビューで、『真面目な話だけしていたいんですよ!』と言っていたのを思い出す。自分が人の日記を読んで面白いと思う部分は、大抵が真面目な話の部分だ。笑わせてほしいとか、楽しませてほしいなんて思わない。1人の人間が生きてそこにいる、シリアスな側面がみたい。
未だ病人の身ではあるが、それが終わりに近づいてきた。そのせいか洋服に関する動画を自然と観ているのに気づく。人前に出る日が迫ってきたよ、新しく服でも着て気持ちを切り替えなさいな。そんな心のメッセージだろうか。ふとグレーのシャツが欲しいなと思う。世界は混乱の最中にあるが、自分の世界で起こっていのはこんな小さなことだ。『新しいシャツを買おうかな』。そんな言葉が、原爆を投下された日の黙祷とともに共存している。