書くことで刻印する
2024.9.21。昨日の日記を今日の早朝に書いている。すき家、6:30、雨。2組の若いカップルが元気に飯を食っている。ラブホ街のど真ん中の牛丼屋で。懐かしい景色。今も昔もやる事は変わらない。若いエネルギーの美しさ。
前のパートナーが使っていた言葉やフレーズが自分の中に残っていて、新しいパートナーとの生活でも使うことがある。いつかの彼女は『お休みなさい』の挨拶を『みんこっちゃーん!』と言っていた。その節回しが面白く愛らしいので、すぐに自分も使うようになった。このフレーズが彼女のオリジナルなのか、それとも前の彼氏が使っていたものが移ったのかはわからない。
彼女と別れたあと、おそらく3人の女性と暮らしたが、いずれも寝るときにはこのフレーズを使っていた。それほど自然に口をつくようになっていた。それが新しいパートナーにも伝播し、また彼女らも使っていた。『みんこっちゃーん!』『はいみんこっちゃーん!』。このフレーズは別れた彼女たちの口承によって、新しい彼氏達に伝わっていくのだろうか。もしそうなら面白い。過去を引きづる、とかではなく、共に過ごした時間の残滓が接木されていくこと。
休みの日以外、外に出るときは常に3冊の本を鞄に入れている。ざっくりとだが、①小説②評論、エッセイ、哲学的な何か、ドキュメント③持っていれば安心な本。この3つだ。宮地直子『傷を愛せるか』は③の安心本に含まれる。開けば適度に示唆的なフレーズが飛び込んできて、本の世界に引き込んでくれ、かつ何度も読んでいるため安心感がある。若い頃は読むために本を買っていたが、今は御守りのように携えるために本を買っているのかもしれない。
洋服はずっと好きで様々着てきたが、50を過ぎて一気にどうでもよくなった。とはいえ、過去の蓄積があるから、最低限の清潔感くらいは整えるようにしている。完全にファストファッションの店でしか買わないが、時々むかしの自分が顔を出す瞬間があって、ド派手なプリントのTシャツなどに惹かれることがある。値段も安いし、買って過去の自分を慰めてやればいいのだが、それは甘やかすことになるような気がして、買えないままだ。ファッションは自分の存在を社会の中に紹介するアティチュードである。内面そのもの。
やはり仕事が始まったら日記の更新が滞るな。書きたいより前に疲れたがやってきて、ぐったりしているうちに明日の準備をしなければならなくなる。港で働きながら書いたエリック・ホッファーや、郵便配達をしつつ夜中にワインを飲みながら書きまくったブコウスキーの何とタフなことよ。ヘンリー・ミラーは働くことこそないが、飲みまくりヤリまくりの間にパンイチで書いていた。アナイス・ニンの日記に何度も書いてある。伝えたいことがあるから書くというよりは、自分の軌跡を言葉を用いて刻印したいという欲望。本当は小説や詩を書きたいのだろうな。作品を書く勇気が無いから、こうやってダラダラとした日記を書いてお茶を濁している。