理性を授かる
自宅療養28日目。7:50起床。朝から餃子。相変わらず上手く焼けない。調味料も安物ばかりなので、全ての満足度が低い。だが仕事もしてないのだから、これくらいでちょうどいい。一食78円。
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ブログのテーマを書き出してみる。30個程でつまづいてしまう。絞り出すことは諦め、『フロムに学ぶ「愛する」ための心理学』(鈴木晶)をつまみ読む。
人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知っている生命である。人間は自分を、仲間を、自分の過去を、そして未来の可能性を意識している。
こんな一節にあたる。少し違和感はあれど、理性と本能は反対語として認識されている人は多いだろう。しかしもはや人間に本能などあるのだろうか。食欲、性欲など、ぱっと見は本能の指示だと思えそうな事はあれど、実際には、理性が選択した本能的に近い行動なのではないか。
様々なアディクションなど、理性を無視したような行動を人間は往々にしてとるが、これは本能的と言えるのだろうか。それとも別の性質のものであろうか。様々な問いが頭をめぐる。『愛するということ』は未読だが、これを機に読んでみようかと思う。
『愛するということ』を買おうと思ったが、同じフロムの『悪について』を注文してしまう。これは理性的なのか?しかも一日分の食費を使って。読むかどうかもわからないのに。
『!』が灯った感情の跳躍的な一瞬の高揚感。人生を狂わせている元凶はこいつかもしれない。
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3日間干しっぱなしだった洗濯物を取り入れる。例え骨折で不自由な身と言えども、自分のルーズさに呆れてしまう。しかし何もせずほぼ家にいると洗濯物はほとんど出ない。風呂も3日おきだからなおさら。
活動が停止するとあらゆる雑事が減る。
ただ食べて寝て起きる。仕事をはじめ、社会的な人間活動を一切しない生活。意識的には、社会からの疎外感や不要感を覚えるし、先の事を考えれば不安しかないが、無意識的にはどう捉えているのだろう。どこかこれでいいと結論を出してはいまいか。無意識がのぞけたらいいのだが不可能だ。
意識と無意識のことを考えれば考えるほど、自分の存在が薄れていく感じがする。肉体という実体はあれど、それは単なる入れ物に過ぎない。操縦席に座っているのは誰なのか。
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『暗闇のなかの希望』(レベッカ・ソルニット)を少し読む。序文に記されたフレーズに一瞬心が動く。
あなたの敵は、もう希望はないとあなたが信じることを願っている。無力で、立ち上がる理由もない、もう勝てないのだ、そうあなたが思い込んでしまうことを。希望とはギフトだ。誰にも譲り渡す必要はない。そして力だ。捨ててしまう必要はない。
自分の敵とはだれだ?という問いが浮かぶが答えは出ない。政治家、差別者、殺人者、搾取者、そして様々な悪人たち。そのどれもがそうでありそうではない。
敵とは具体的な1人の人間だ。あいつら、奴ら、あの組織が、、、という大雑把なくくりではない。自分はそう思う。自分には何人の敵がいるのかということ。映画のワンシーンのように、薄暗い部屋の壁に対象の人物の写真を貼っていく。自分は誰の写真を貼っていくのか。
いずれにせよこのソルニットの言葉はカッコいい。最後のセンテンスに続けて、Power to the people,right onと続けたくなるような見事なアジテーション。
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明日は外来のリハビリ。計画的には松葉杖が一本に減る予定だが体感的には不安しかない。怪我した左足に体重をかける時の微調整に自信が無い。ふと気が抜けて無意識に足をつく。そのとき想像以上の体重がかかり激痛が走る。その記憶が蘇る。
心の痛みを思い出し追体験する怖さと、物理的な痛みの記憶とでは後者の方がリアルに想起できる。思い出すときに、記憶が濾過され、そのとき使用するフィルターが別物という感覚。物理的な痛みの記憶の方が、目の細かいフィルターを使用し、記憶の純度が高いというような。