魂のダンス
自宅療養31日目。7:30起床。窓から入る日差しの暑さで目が覚める。今日も良い天気で空の青さが濃い。ブルーオンブルー。青の上塗り。この青さは水をイメージしない。もっと、何ていうか、固形的な感じ。
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昨日からパスカル・キニャールでしか満たされない感性の束が騒ぎ立てているが、家には一冊も無い。自信は無かったが、怪我してから初めての長い移動に挑んだ。図書館へ。
普段なら10分で着くが40分近くかかった。疲労困憊、足の痛みも半端なく、もう二度と来るかという後悔。しかし借りた本は充実してて嬉しいという複雑な気持ち。
スタート5分は調子が良かった。長時間歩けるか自信はなかったが、あれ?意外といけるじゃん!と心が踊った。土曜日なので人通りも多い。右手に持った杖に体重を預けるので、大きく傾きながら進んでいく。どうしても狭い歩道を占領しながらの歩行になってしまうので、絶えず後ろに人がいないかチェックして、距離が近づくと止まって追い越させる。その繰り返し。
だが10分もすると足が痛んできた。足裏の荷重時痛だけでなく、怪我した足の付け根、膝も痛む。さらには歩行のメインになっている右足の付け根も痛んできた。歩くたびに杖を地面に向けて押しつける。それによって左足にかかる体重を軽減し、痛みを防ぐ。そんな歩き方が大きな負担となっていく。体の別の場所に負担をかけるのだ。左足が痛い、右足が痛い、背中も、右手も。歩く限り痛みは増していき、治まることは無い。数10m歩くたびに止まって休む。軽く足や腕をマッサージする。ゆっくり歩いている老人にも抜かされる。
1ヶ月ほぼ動かせなかった左足が機能しないのはわかっていた。しかしそもそもの運動量がこの2か月で圧倒的に足りてないのだ。リハビリはしていれど、毎日10時間以上も横になっているから。それに気づかなかった。日常的な作業ートイレ、炊事、洗濯、シャワーなど狭い範囲の移動しかしない動き。それができるようになってきたので、体力も回復してきたのだと勘違いしていた。大きな間違いだ。身体全部の機能が衰えているのだ。
歩くとき杖を前に出す。なるべく真っ直ぐに出すようにしているが、時には斜め前についたり、半円を描くように外カーブしながらつくときもあり、安定しない。痛みの軽減のためもあるが、知らぬ間にそうしている時もある。
普段なら無意識に歩いてもブレることはないのだが、意識しながら杖を出してもそれができない、体のバランス、痛みの指示がそれを許さない。自分を抜かして前に出るとき、結構な人数が杖ギリギリを通る。その度に杖が人にあたらないかとヒヤヒヤする。実際、老人の持った買い物袋が杖にあたった。その衝撃で一瞬よろけたが、運良くガードレール脇を通っていたので、咄嗟に掴んで事なきを得た。怖くてしょうがない。土曜日に外出した自分を呪う。
性も根も尽き果てた状態で部屋に戻って横になった瞬間『あー疲れた!もうやだ!もうやだ!』と声が漏れた。何でこんな思いをしなければならないのかと悲しくなり目が潤む。痛みを我慢し、度々襲うマイナス思考に抵抗している日々の中で、自由に外を歩けない事実を突きつけられた。2か月経ってまだここかと絶望感だけが残った残念な散歩になった。
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『すべての、白いものたちの』(ハン・ガン)からの一節。
不規則な動きはときに優雅に、ときには錯乱的に映る。花の蜜を吸うとき、魂は安らいでいるのではなく忙しない。孵化した蝶の寿命は2週間ほどで、孵化するまでの期間の方が遥かに長いから。魂のダンスはレクイエムのようなものなのだ。