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第4章:心を開いてたつもりに気づいたという話
第1章を読んでから、このお話を読んでくださいね(*´▽`*)
⇒https://note.com/aono888/n/naa68ec718590
いじめられっこの過去って、もうとっくに超えられてると思っていたけど、人を信用していないっていうところは、あったみたい。
おかげで信用に足る人をみつけやすくなるというおまけはありました。
それに、一緒にいてくれる人とは心を開くことができていたし、何かを共同作業する時に、自分の本音を伝えることができていたし、その時には相手の気持ちも聞くように心がけていたから、心も開けていたと思ってました。
でも、それって違うんだ、って気づいたの。
そして、これはなぜこういうことが起きているんだろう、って思った。
愛されたいのに、愛される努力をしていない。
そんな自分に気づいたのだ。
今まで私は、相手の気持ちに無頓着なところがあって
自分にも相手にも無気力になりがちだった。
で、それが普通になっていて、違和感がなく生きていた。
仕事の中で、周囲の人の期待や無茶ぶりに応えて、それを喜んでもらえた時
なんか「人に見られる喜び」を本当の意味で知ったような気がした。
突然、何かがふっと腹落ちした感覚と共に、私という存在に安心感が生まれた。
その時に気づいた。
アウトプットはするけど、私自身を他人から見られないようにカバーしていたりしていたように思った。
無頓着に無責任に言ってしまうことがある自覚があって
概念とか考えとかだけ伝えるけれど
私という存在には繋げないように伝えようとしていたんだなって気づいた。
後ろに「しらんけど」ってつけて言って回ればいいのだけど、そういう場面ばかりではないから、基本的には自分の発言に責任を持たなくてはいけない。無責任に言うことはできない。
だから、自分を出すより、技術を出すようにしていた。
そうすることで、技術での信用を重ねることによって、私という存在がどうであれ、他人に信じてもらおうと、そうふるまっていた自分に気づいた。
他者の「こうしてほしい」に、技術の提供以外で貢献することで
「あたしってこのままで見てもらっていいんだ」
「このあたしで行動を通じて現実を創っていっていいんだ」
と思えた。
こんな風に思えたのは、初めてだった。
技術を求められてそれに応えて信用されることはあったけれど、相手から振られる現実的な無茶ぶりに応えることで喜んでもらえるというのは、初体験だった。
あ、これもできるんだ。っていう、自分の可能性に気づいた。
そして、この方法もあるんだ。って、社会に対する新しいアプローチにも気づけた。
すごいね、だからみんな人と協力して生きてるんだ、って、実感した。
だから、人は人に愛される努力する部分があるのかもしれないって、腹落ちした。
人に愛される行動をしたい。
愛される努力をしたいって思った。
忖度するという意味じゃなくて
状況に応じて適切な行動と丁寧なサービスを提供する、という意味で。
丁寧なサービスはサービスでしかないんだけど、必要なら自分が本当にやりたい行動かどうかという自分の好みや都合は一度横に置いておいて、目の前の人に喜んでもらう行動をしてみたい、って、心から思った。
すごいなんか、初めて生まれた感情に、感動を覚えてドキドキしてる。
人という存在を愛するっていうのを
行動レベルでは初めて知ったかもしれない。
なぜなら、自分のやりたいようにしか
してこなかったから。
なんか、恥ずかしい告白になってしまったけれど。
そんな風に、一つ、自分の奥のひっかかりに気づけて
一つ、素直になれる鍵を拾えた気がします。
今日は「心を開いていなかった自分に気づいた」
そんなお話でした。