![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/60434379/rectangle_large_type_2_90380cb15e5b5a5b62fbf4405d9d520b.jpg?width=1200)
9月号「ラブマイセルフ」
はじめまして。
アクセサリーブランドの【青二才】です。
noteでは青二才のスタッフ達が普段どのようなものに触れているのか、どのようなものからインスピレーションを受けているのか、どのような想いが込められているのか。「青二才」という形が作られたバックグラウンドを綴ることで青二才というブランドがより皆様に浸透して身近なものになれば嬉しく思う。
まず初めに青二才のコンセプトを紹介したい。
起床時刻を目覚ましにセットし、眠りにつく。そして、その時刻の何分かあとに起き、身支度をして一日を始める。同じ電車に乗る。同じ場所に行く。その代わり映えのない毎日、繰り返す日常で抱く、行先のわからないメランコリックな感情。いつからか色が失われ”モノクロ”と化したその日常に”カラー”をもたらす、身につけるといつもとは違う気分になるきっかけを提案します。
控えめに言ってプラスなものではないと思う。しかしこのコンセプトに共感する人は多いのではないだろうか。毎日同じような日常を過ごし、漠然とした不安が押し寄せる夜もあるだろう。色付いていた自分の世界から彩度が失われ、見えるもの全てがモノクロに変わってゆく。そんなモノクロと化した世界に色を塗ること(アクセサリーを身に付けること)で元々色鮮やかだったカラーな世界をまた見るきっかけを私たち青二才は提案していきたい。
ゼロをプラスにするより、マイナスをゼロにする。
では、なにが自分の日常をモノクロの世界へと加速させているのか。コンセプトを読んで頂ければ仕事や学校、アルバイトなど外的要因を想像した方も多いのではないだろうか。理由は人さまざまだが、大半の人はそうだろう。しかし今回はある記事で読んだ「自己肯定感」という内的要因の話をしたいと思う。
「自己肯定感」とはラブマイセルフだ。
しかし最近使われる「自己肯定感」という言葉はルッキズムという言葉に雁字搦めにされていると思う。
ルッキズム(Lookism)とは、「外見にもとづく差別」であり、特に「身体的に魅力的でないと考えらる人々を差別的に扱うこと」を指す。外見至上主義という呼称もほぼ同義として扱われる。(Wikipedia「ルッキズム」より)
ダイエットやメイクで"外見をより良いと思えるものに取り繕っているだけの状態"を自分の姿として認めるのは、本物の自己肯定ではないのではないか。
しかし、これを切り離して、ありのままの自分も心底愛していると断言するには些かとは言い難いほどに、難しいものだ。
容姿で失った自信や価値は、容姿でしか回収出来ないと考えるのも無理はない。
「自分の容姿に自信がない=自分が嫌い」という方程式は、有害な程に根深く自分自身を支配している。
自分自身も上記のことをきちんと切り離して愛せているかと言われたら完全にはできてない。
ダイエットを終えた後も元に戻ってはいけない、社会的に良しとされ、褒めてもらえる自分の姿で居続けなければならない感覚に襲われる。
その時思ったのだ。ダイエットやメイクで手に入れたのは自己肯定感なんかじゃなく、「社会基準でより良いとされる姿を手に入れた事による安心感、高揚感」でしか無かったと。
自分や誰かに褒められるビジョンが頭に浮かぶのが嬉しかっただけ。
結局まだ、自分を認めるために誰かに褒められる日を待っていた。周りからの評価に依存していただけだ。
しかし、ダイエットやメイクや整形を否定するつもりは一切ない。身体が引き締まって理想の形になるのは嬉しいし、鏡を見るのが楽しくなるだろう。
言いたいのは「そうじゃないと自分を認められない」状況にいるならば、それは自己肯定しているとは言えないのではないかということだ。
では、どうすれば正しい自己肯定感というものを自分自身の中に落とし込めるのか。それはこの長々と書いてきた自己肯定感と社会的依存をきちんと別のものであると自分の中で切り分けることだと思う。
自己肯定感の正体は世間は痩せてる方がいいけど、太っていても自分は自分を受け入れるという気持ちだ。
「より美しいとされる自分」を目指すのではなく、「どちらの自分も受け入れる自分」を目指すべきである。
真の意味でこの「自己肯定感」を理解することがモノクロと化した世界に色を付けていく為の根本的な第一歩になるのだと感じたので長々とつらつら書いてしまった。
しかし、この記事を読んで少しでも皆様が自分を好きになる為の第一歩を踏み出すきっかけになれば嬉しく思う。
次回更新は10/4になります。