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べちゃべちゃのチャーハン作るのも文学

例えば恋人の浮気の証拠を掴んで、逆ギレされて大暴れ、というような、色恋沙汰の渦中にあるとき、泣き喚いたりしている裏側で、ほんの微かにほくそ笑むもう一人の自分を見つける。

このエピソード、女子会のテーブル上に広げたらめちゃくちゃに盛り上がりそうやなあと思い、どうぞお好きに召し上がれって、自虐的快楽な気分でもって、少々大袈裟な手つきで差し出すところを想像している。

もちろん痛みは伴うけれど、惜しみない同情と好奇を一身に受け、その日の主役は間違いなく私だろうな、などと、ねじけた承認欲求を発動させる。

似たような構造で、ネガティブなできごとに遭遇したとき、いつかなにかしらの文学として昇華できる未来を描き、乗り越えようとするところがある。

あまりにどうしようもないときは、これ、ネタになりそう、などと冷静に思う余裕なんてないし、正直しんどい思いは少しだってしたくないけど、熱さも喉元を通り過ぎ、随分と時間が経って離れた場所から眺めてみれば、やっぱりこれ、ネタになりそう、などと、思える瞬間が訪れる。

どんなにどうしようもないできごとも、あるいはどんなに平凡な毎日も、見つめる視点と切り取る角度、あてがう言葉の輪郭次第で文学になりうる。

書かれないまま通り過ぎれば、すぐにでも忘れてしまいそうな、だからこそ尊い一瞬を掬い上げ、留め置けたら素敵なことだ。

いろんなだるさが折り重なって、いろんな過程をおざなりにした結果、べちゃべちゃの、無味のチャーハンを作ってしまった。

いつもはなんなくこなせることが、なんなくこなせなくて地味にしんどい。

まあ成功ばかりが人生ではないよねって、安物の哲学めいた言い分で自分を慰め、山盛り乗せたキムチを頼りに口に押し込む。

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