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Novelber2021/08:金木犀

 研究室に向かう道すがら、ふと、甘い香りを嗅いだことを思い出す。
 この季節になると自然と辺りに漂うこの香りが、金木犀の花の香りであることを知ったのは、果たしていくつのときのことだっただろう。物心つくころには、その香りは当たり前のものとして私の側にあったと記憶している。
 なお、北海道育ちのスタッフは金木犀の香りを長らく知る機会がなかったらしく、初めて金木犀の香りを嗅いだとき、どうしてこの時期に限って甘い匂いがするのか、さっぱりわからなかったのだという。
 なるほど、この日本という国においても、これだけ香りについての認識が違うのだ。別の場所ではもっと別の香りがしているのだろうし、それが『異界』ならば、尚更だ。
 とはいえ、『異界』について私が知ることができるのは、異界潜航サンプルのXが見聞きしたものだけで、それ以上の感覚――例えば匂いについて知ることはできない。もちろん、装置を改良すれば可能ではあるのだが、今のところすぐにそうする必要はなさそうだ、ということでこのまま実験を続けている。
 ただ、匂いを知らないままであるというのは、案外問題があるかもしれない。
 そんなことを思いながら、寝台の上のXを見下ろす。Xは、寝台の上に上体を起こした姿勢で、天井の辺りに視線を彷徨わせている。『異界』から戻ってきて十分近くはそうしているだろう。
「……どう、大丈夫そう?」
 既に発言は許可しているため、Xは視線はそのままに「一応」とだけ答えた。
「ただ、嗅覚が、やられてますね。まだ、回復しないようです」
 我々が『異界』に送り出せるのはXの意識だけだが、意識と肉体とは密接な関係がある。意識上で腕を失えば肉体の腕も動かせなくなり、意識上で嗅覚を失うなら、やはり肉体にもしかるべき影響がある、ということだ。
「そんなに酷い匂いだったの?」
 今日、Xが赴いた先は、極彩色の花が無数に咲き乱れる『異界』だった。ディスプレイ越しに見る分にはまさしく「この世ならざる」美しさだったのだが、Xがすぐに引き上げを依頼してきたのだった。意識体の身ではあるが、それでも逃れ得ないらしい頭痛と吐き気を訴えて。
 それがどうやら花が放つ「匂い」によってもたらされたものだということは、戻ってきたXの言葉によって明らかになったことだった。確かにそれは我々が観測しているだけでは判明しない部分である。
 Xは私の言葉に対し、ゆるりと首を横に振る。
「酷い、というか……。最初に感じたのは、甘い香りでした。金木犀の、香りのような」
 けれど、と。Xは視線をやっと私の方に下ろしてきて、言うのだ。
「それが、あまりにも、濃すぎた、みたいです。次の瞬間には、正常な匂いは感じられなくなって、あとは眩暈と頭痛、それから吐き気で、どうにもなりませんでした」
「……なるほど」
 どれだけ一般的に「よい」と感じられる香りであっても、強すぎればもはや暴力だ。今までの『異界』とはまた異なる形の暴力に晒されたXは、彼にしては珍しく深々と溜息をついたのだった。

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青波零也
あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。