無名夜行 - 三十夜話/27:ほろほろ
街路樹の葉が落ちていく。音もなく。
家への帰り道を行きながら、私は落ちた葉を踏む。ぱきり、と音がして、靴の下で葉が砕けるのがわかる。
吹く風も冷たくなり、コートとマフラーが手放せなくなった。研究室はほとんど温度が一定に保たれているから普段どおりの格好で構わないのだが、一歩外に出ればそうも言っていられない、その程度の寒さ。
空の高さも、雲の形も、季節の変化を如実に示しているといえよう。
このプロジェクトを任されて、Xという稀有な異界潜航サンプルを得て、それからいくつかの季節を越えてきたのだということを実感する。
正直に言えば、この期間でこれほどまでのデータを収集できるとは思っていなかった。その間に、何人かのサンプルを使い潰すことだって考えていたのだ。だが、実際にはXというたった一人のサンプルが、いくつもの『異界』を渡ってなお今も『潜航』を継続している。
もちろん、Xを生かすために捨てたデータも多い。だが、Xを生かしたから得られたデータの方が多いと言い切ることができよう。Xと同じことを、他の人間にやらせようとしても難しいはずだ。仮に自分がXだとして、彼と同じようにできるとは、到底思えなかったから。
ひときわ強い風が一つ吹き、枯れ葉が舞い踊る。私はその冷たさに思わず首を竦めてしまう。それから、不意に、今日のXのことを思い出す。
スタッフと、今日は随分寒い、という話をしたときに、不思議そうな顔をしていたのだ。その時、私は否応なく気づかされることになった。
――Xは、季節の変化を感じることが、できない。
否、どこかでは感じているのかもしれない。食事の変化だとか、水の冷たさだとか。けれど、研究室の独房はそもそも地下にあるために、窓の外の景色の変化を知ることすらできない。木枯らしの冷たさも、枯れ葉が風に揺られるところも、Xが確かめることは、ないのだ。
もちろん、季節などわからなくとも問題はない。『異界』への『潜航』に支障をきたすことはないだろう。今までのXがそうであったように、これからも上手くやってくれるに違いない。
それでも、どこか、胸に引っかかるものを感じて、私は『潜航』を終えた後のXに対して、こんなことを言ってみたのだった。
「最近、外は随分冬らしくなってきたけれど。あなたには、好きな季節はある?」
すると、Xは少しだけ考えるような素振りを見せてから、こう答えたのだった。
「どれかで答えるならば、夏が好きですね」
「あら、そうなの?」
「暑さには閉口しますが、夏の光や、空の色、雲の形。あと、風鈴の音色や冷たい飲み物など、何となく……、古い思い出に結びついているものが、多くて」
思い入れ、のようなものですねとXは言う。Xにも、思い入れるだけの記憶があるのだ。当然ともいえたが、私が今まで想像もしなかった部分。
私は思わず、余計なことを口走っていた。
「その頃に、戻りたいと、思う?」
不可能な仮定。無意味な問いかけ。ただただ、Xという人間を暴こうとするだけの、無神経な言葉だ。しかし、Xは嫌な顔一つせず、一拍を置いて言ったのだった。
「そうですね。戻れたら、やりたいことが無い、と言ったら嘘になりますが」
それでも、と。少しだけ口の端を歪めてみせるのだ。笑みとも言えない、Xらしい表情。
「それよりは、今を大切にしたいと思います」
思わず、私は「X」と彼を呼んでいた。本来は彼の名前ですらない、ただの識別記号ですらない、それを。けれど、Xはそれ以上を語ることなく、唇を閉ざした。だから、話はそこで終わった。
果たして、あの時、私はXに何を言うべきだったのだろうか。それすらもわからないまま、私は帰途についている。
Xの言う「今」が果たしていつまで続くのか、私は知らないし、Xも知らない。ただ、時間は流れていて、季節は過ぎていき、Xにとっての「終わり」は近づいているに違いなかった。
枯葉を踏む音を鳴らしながら、私は家へと向かっていく。
Xは今頃、独房で何をしているのだろう。何一つ変わらないように見える日々の中で、過ぎ去った季節を思うことが……、あるのだろうか。
こうしている間にも、葉は、落ちていくのだ。ほろほろと。
あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。