無名夜行 - 三十夜話/19:クリーニング屋
その『異界』は、ちいさな店の姿をしていた。
店の入り口をくぐるような形で『異界』に降り立ったXは、呆然と店の中を見渡す。ものらしいものがほとんど置いていない殺風景な店内、唯一存在するカウンターの向こう側に、一人の男が座っている。……最低限、Xの視界を借りてみる限り、それはXと同じような姿かたちをした、人間の男に見えた。
「いらっしゃい」
男が言う。Xは「どうも」と軽く頭を下げてから、男に向き合う。特徴を見出せないのっぺりとした顔、グレイを基調とした、こざっぱりとした……しかし特筆すべき点のない服装。一瞬でも目を離したらすっかり忘れてしまいそうな印象の男だと思う。
「お客さん、知らない顔だな。うちの店は初めてだよな?」
「はい。……こちらは、何のお店、なのですか」
それも知らないでここに来たのか、と男はちょっと呆れたような顔を浮かべながらも、すぐにうっすらと微笑んでみせる。
「うちはクリーニング屋だよ。何でもかんでも『洗う』店」
「何でも、かんでも?」
その言葉にどこか違和感を覚えたのか、Xが男の言葉を繰り返す。対する男は「そう、何でもかんでも」とあっけらかんと言い放つのだ。
「人には、どうしたって消してしまいたいものがあったりするだろ。そういうものを、何でも洗い流しちまうのがうちの店さ。お客さんも、随分色々なもんを抱えてるようだけど、全部洗い流して綺麗になりたいとは思わないかい?」
男の目が、じいっとXを覗き込む。その口ぶりは、初めて出会った相手であるはずのXの背景も、経緯も、何もかもを把握しているかのようで、見ているだけのこちらまでぞくりとする。ただ、X本人はどこまでも淡々として、男に向かって言うのだ。
「洗い流す、というのは……、本当に、どんなものでも、ですか」
「どんなものでも。例えば、記憶だとか。例えば、経歴だとか。何もかも、何もかも、洗い流して、なかったことにできる」
「それは、ただ……、忘れるということではなく?」
「忘れる、っていうのは個人の中の話だろ。うちは、人が残した『痕跡』全てを洗っちまうのさ。その出来事に関わった全ての人間の頭の中から、あったはずのことが消える。記録されたものも、全て消えてなかったことになる。そもそも、そんな出来事起きていなかったということに、なる」
そうして、何もかもが綺麗になるのさ、と。男は言い放つのだ。
それは、にわかに信じられる話ではなかったけれど、何しろここは『異界』だ。どのようなことも起こりうる、と考えた方が自然だろう。今までも、どう考えても現実――『こちら側』にはあり得ないことが起こっているのだから。
ただ、男の言葉が全て真実だとするならば。
「……例えば、取り返しのつかない罪を犯したとして。その罪が、なかったことになる、ということですか」
――Xの罪も、なかったことになる、ということだろうか?
「そう。ただし、その罪によって失われたものが戻ってくる、わけじゃない。あくまで『洗う』だけだからな。罪の記憶が本人からも他人からも失われて、罪を犯したという痕跡もまっさらになる」
関わった全ての人からその記憶が失われるということは、その過程で何かが失われていたということすら、認識できなくなる、ということか。私はどこか薄ら寒いものを感じずにはいられない。
「お客さんも、綺麗になりたいとは思わないかい? 今なら安くしとくよ」
もし、ここでXが罪を『洗う』ことを望むなら。果たしてXはどうなるのだろうか。そして、今、Xを観察している私たちは。罪の事実とその痕跡が消えてしまえば、Xがこの場にいる理由だってなくなってしまう、のではないか?
Xは「なるほど?」と男の言葉に軽く首を傾げてみせて、それから、こう、言うのであった。
「……ただ、私には、洗いたいものは、特にありませんね」
「ほう? お客さん、かなり苦しそうに見えるけどな。少しでも洗い流して、身軽になったっていいんじゃないのかい?」
「そう、見えたとしても。それも、これも、『私』を形作るもの、なので」
どうしたって、私が私である限り、綺麗にはなれませんよ、と。Xは言い放つのだ。
男は呆れたように息をつき、肩をすくめてみせる。
「なるほど、お客さんにはうちは必要ないね。久しぶりの上客かと思ったのにな」
「ご期待に沿えずすみません」
頭を下げるXに対し、男は「いいってことよ」と手を振る。
「いつか、お客さんじゃなくても、その向こうで見てる誰かさんが、うちを利用してくれるかもしれないし」
――目が、合った。
ディスプレイ越しの、男と。
この男には、Xのみならず、観察している私のことも見えているのか?
「ねえ、その目の向こうのお嬢さん」
私は……、私には。
「洗い流したいものがあるなら、いつでもご用命を」