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無名夜行 - 三十夜話/16:水の

 今回も無事に『異界』から帰還し、寝台の上に起き上がったXの視線が、大きなディスプレイに向けられる。
 先ほどまで『異界』にいたXの視界と接続していたディスプレイは、今は録画された『異界』の画像を映し出している。
 そこは、大きな、大きな、湖のような場所であった。見渡す限りが水に覆われていて、その場に立っているXもまた、膝の辺りまでが水に浸かっている。当然人が通る道など見えるはずもなく、Xはただ、ただ、その場に立ち尽くすしかできなかったに違いない。
 画面に映し出されたXの視界は足元から水平線へと映される。澄み切った青からうっすらとした赤色へと移り変わろうとしている夕時の空を、凪いだ水面が映し出している――と思われたその時、景色に変化が起こる。
 突如、風ひとつ感じられなかった水面に波紋が起こる。視界一面の水が自ら跳ねたかと思えば、それは人や獣のようなシルエットを描き、次の瞬間には崩れ落ちて水の冠を作り出す。
 水は踊り続ける。沈みかかっている太陽の光を透かしてきらめきながら、近くから遠くに柱を打ち上げていき、時には螺旋を描き、時には階段のような段差を生み出しては崩れ落ちたりと、一つとして同じ形にはならない。
 その動きは噴水か何かのようでいて、どう足掻いても人の手では作り出せないであろう、不可思議の美に満ちていた。
 先ほどもリアルタイムに見せられた情景ではあったが、何度見ても目を奪われる光景だ。そう思っているのはもしかするとXも同様だったのかもしれない。ぼうっとした横顔で記録された自分自身の視界を見つめていた。
「綺麗ね」
 私の言葉に、Xはこくりと頷く。Xを通して色々な『異界』を見てきた我々ではあったが、このような、ただただ美しいと思える光景はなかなか稀有なものだ。
「発言を許可するけど、あなたには何か、感想はある?」
 私の問いかけに、Xは少しだけ考えるような素振りをしてから、薄い唇を開く。
「……水の戯れ、という曲をご存知でしょうか」
「確か、モーリス・ラヴェルの曲だったかしら」
 はい、とXが頷く。今まで音楽の話などしたことのないXから突然クラシックの話が出たことには内心驚きながら、視線で話の続きを促す。Xは私にひとつ目配せをしてから、なおも画面の中で踊り続ける水に目を戻し、ぽつ、ぽつと言葉を落とす。
「まず、思い出したのが、それでした。単純に題名からの連想かもしれませんが、それでも、……なるほど、と思ったのです」
 私はかの曲がどのようなメロディラインをしていたのかを思い出すことはできなかったが、Xはきっとそれも覚えていたに違いない。どこか遠くを見つめるような目をしながら言うのだ。
「『異界』が『こちら側』のすぐ側にあることを思うと、案外、このような光景を見て作曲されたのかもしれない、なんてことを思いました」
 もちろん、勝手な想像ですが、とXは付け加えてみせる。
 その「勝手な想像」が正しいものなのかはもちろん誰にもわからない。ただ、Xのそういう感性は実際に『異界』を体感している人間ならではのもので、それ自体が得がたいものなのだということを感じずにはいられない。
 太陽は水平線の果てに沈もうとしている。
 水はやがて踊るのをやめ、元の凪いだ水面に戻ろうとしている。
 それをじっと見るXの横顔を、私はつい見つめてしまう。Xの横顔も、また、画面に映る水面のように、どこまでも静かであった。

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青波零也
あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。