無名夜行 - 三十夜話/18:旬
Xは、このプロジェクトに参画するまでは長らく拘置所の独房で暮らしてきたという。
それが一体どのくらいに及んでいたのか、私は仔細を知らないし、Xもことさら語ろうとはしない。ただ、長らくXという人間が、外界から切り離されて過ごしてきたという事実を語る材料にはなるだろう。
刑務官以外の人間と言葉を交わすこともなく――刑務官から与えられる言葉も、ほとんどは「命令」ないし「指示」であったはずだ――人間らしい扱いを受けることもなく、いつ刑を執行されるかもわからない日々を過ごしてきたという経験は、少なからず今のXの人格を形作ってきたのかもしれない、と思う。
まともな人間であれば、我々が下す理不尽ともいえる命令を、文句一つ言わず飲み込むようなことはない、だろうから。
ただ、時折。本当に時折だが、Xは「ひと」らしい感性を覗かせることがある。
それは、ある日のこと。特に危険らしい危険もない『異界』からXが帰還した後のこと。Xはぼんやりと寝台の上に腰掛けていて、私はスタッフと他愛のない話をしていた。例えば、今日帰りに買い物に行くかどうか、とか。今日の夕食は何にしようか、とか。
そのような他愛もない、けれどXからははるか遠い世界になってしまった「外界」の話を、傍からXがどのような気持ちで聞いていたのかは、私には判ずることはできない。
ただ、Xがこちらを見ていることに気づいて、私は気まぐれでXに発言を許可してみたのだ。
「あなたは、何か、食べたいものはある?」
Xは私の問いかけに、不思議そうな顔をして、首を傾げて。それから、少し間をおいて口を開いた。
「特別、『何』ということはないのですが、今の季節に一番美味しいと思えるものを、心行くまで食べてみたい、とは思いますね」
「それは、旬の食べ物とか、そういうこと?」
「はい。……出される食べ物で、時間の流れを感じることが、あって。ああ、今はきのこが美味しい季節なのだな、とか、そういうことを、思うようになりました」
なるほど、外界から遠く離れた場所に生きているXにとって、外の世界に流れる時間を知る数少ない手段のひとつが「食」なのかもしれなかった。
そして、とてもささやかかつ「ひと」らしい望みである一方で、Xにとってはどこまでも叶わぬ望みを抱えながら、日々を過ごしているのだということを、再認識する。
「そんなことを、思うようになったのも、最近のことですが」
「そうなの?」
「今までは、何も、感じなかったので」
何を食べても味がしなかったんです、と。付け加えて、Xはわずかに口の端を歪ませる。わずかに笑っているようにも、どこか自嘲しているようにも見える、ある意味では極めてXらしい表情で。
「ですから、……このプロジェクトには、感謝しているのです。人並みの感覚を思い出したのは、このプロジェクトに参加してから、なので」
私は、その言葉に何も言えなくなる。
Xとてわかっているはずだ。私たちプロジェクトメンバーは、Xを人間扱いはしていない。Xは我々にとって『生ける探査機』であり、それ以上でも以下でもなく。故に、感謝される筋合いなどどこにもない。どこにもない、けれど。
Xは、いたって穏やかな表情で、こう言うのだ。
「故に、思うことはあっても、望むことはありません。今、ここにいられるだけで、私にとっては十二分ですから」
手首を手錠で繋がれて、何一つ自由などなく。
それでも、Xは「十二分」であるという。
私にはどうしてもそんなXがわからない。わからないまま、時間は過ぎていくばかり。どれだけ私が望んだとしても、終わりは、否応なくやってくるのだから。自分自身にそう言い聞かせて、私はXの視線を受け止める。
わずかに。ほんのわずかに、胸が、痛かった。