無名夜行 - 三十夜話/23:レシピ
「災難だったわね、X」
と言いながらも、寝台に腰掛けた姿勢で肩をすくめてみせるXが、なんともおかしくて口元が自然と緩む。
今回の『異界』は、一言で言ってしまえば厨房だった。そして、Xはそこでの下働きという『設定』を与えられたようだった。
普段、Xはそのまま『異界』に降り立つことになるが、稀に、『異界』に合わせて何らかの『設定』が与えられることがある。元よりXという人間がその『異界』に存在していたかのような、『設定』が。
Xはほとんどの場合与えられた『設定』に対して忠実に動く。そうすることで、周囲に違和感を与えないようにしながら、『異界』のありさまを知るための行動を選択していくのだ。
ただ、今回の場合は――。
「結局、働かされただけで終わったものね」
そう、『異界』の探索などする余裕もなく、厨房の主から与えられる仕事をこなすことだけで精一杯だったのであった。『こちら側』のXも心なしか疲弊しているように見えた。
Xに発言を許可すると、いつもより重たげにひとつ瞬きをして、低い声で言う。
「大変でした……」
幾度もの理不尽な『潜航』を超えてきたXをしてそう言わしめるのだから、その激務ぶりは推して知るべしというものである。
「ただ、興味深い場所ではあったわね。……雲を調理する、なんて」
あくまで仕事をしているXの視点でしか判断できなかったけれど、その厨房で作っているものは『雲』だった。言葉通り、空に浮かぶ、あの雲だ。
Xに与えられたのは、鍋いっぱいの白い塊であったり、ぱらぱらの不思議な粒であったり、水のように見えて不思議ととろみのある何かだったりした。それらをレシピどおりに加えて、時に千切り、時にかき混ぜたり、時に熱したり冷やしたりすることで、雲を作っていくのだった。
と言っても、レシピどおりの調合をするのは厨房の主の役目。下働きであるXはもっぱら鍋いっぱいの雲の材料をただただ力任せにかき混ぜるばかりだったのだけれども。めいっぱいかき混ぜられた鍋の中には、メレンゲを思わせる白いものがふわふわと溢れんばかりに満たされていたことを思い出す。あれはもしかすると、積乱雲だったのかもしれない。
「あの厨房で作られた雲は、どこに行ったのかしらね。結構、出来上がったものは美味しそうだったけれど」
Xの視界の端で、厨房の外に運ばれていく、青色のトレイの上に綺麗に盛り付けられた雲。その行方をXが知ることはなく、つまり私が知ることもできなかった。あれらは、今まさに、私たちの頭上に浮かんでいる雲だったりするのだろうか。あの雲を千切って食べたら、何らかの味がするのだろうか……?
そんなことを思っていると、Xと目が合った。少しだけ焦点のずれた視線を受け止めると、Xはわずかに眉尻を下げて言った。
「今は、隙を見て、つまみ食いくらいしても、よかったかなと思っています」
「そうね。次の機会があったら、やってみれば?」
「次の機会は、正直来てほしくないですね」
珍しく率直に弱音を吐くXに、私はつい、くすくすと声を出して笑ってしまったのだった。