無名夜行 - 三十夜話/22:泣き笑い
かつて、森の中にひっそりと佇む塔に、一人の少女が幽閉されていた――。
そんなことを言い出したのは、Xの傍らに立つ魔女だった。『異界』でこの魔女と出会うのは何度目だろうか。相変わらず、我々が「魔女」といって想像する姿に極めて近い、黒いドレスに黒い先端のとがった帽子を被った女は、黒猫を片手に抱いて語り続ける。
「少女を幽閉していたのは一人の魔女で、魔女は決して少女を外に出そうとしなかった」
Xは黙って魔女の横顔を見つめている。魔女は横目でちらりとXを見やり、形のよい唇を笑みの形にして、話を先に進めていく。
「ある日、国の王子が、偶然塔の前にやってきた。そして、窓から顔を覗かせた少女と出会った。少女と王子は窓越しに密かに顔を合わせ続けて、やがて王子は少女が魔女に囚われているのだということを知ったわけ。
王子は、魔女から少女を解放しようとした。魔女はそう簡単には少女を手放そうとしない。けれど王子は諦めない。かくして三日三晩戦い続けて、ついに魔女を倒すことに成功したの」
その後は、わかるでしょう、と。
魔女はXに顔を向けた。Xは少しの間考えるような素振りを見せて、それから答えた。
「王子と少女は結ばれて、二人は、末永く幸せに暮らしましたと、さ」
「そういうこと」
魔女はくい、と視線を上げる。Xもまた、魔女の視線を追うようにそちらを見る。広い道の真ん中を、辺りを満たす人ごみをかき分けるように、大きな四足の獣に引かれた豪奢な車がゆっくりとやってくる。
車を取り巻く兵隊たちが何事かを叫び、人々が湧く。彼らが何を言っているのか、私にはわからないし、きっとXにもわからなかったに違いないが、傍らの魔女には通じているのだろう。そっとXに耳打ちする。
「王子さまと、その結婚相手のお披露目パレードよ」
屋根の開いた車の上には、きらびやかな服を纏った見目美しい男女が乗っていて、その場に集った人々に手を振っている。Xの視界で見る限り、二人とも満面の笑みを浮かべているように見えた、けれど。
車がXの目の前を通過しようとしたとき、その上で屈託なく笑うドレス姿の少女が、一瞬こちらを見たような気がした。そして、少女の目尻から、何か煌くものがこぼれ落ちたのを、目にした。
ぽろぽろとこぼれてゆくそれは……、涙、という名で呼ばれるべきものであったはずだ。だが、少女の頬を伝っていくうちに、それは青く透き通ったものに変化していく。少女が片手で涙を拭えば、煌くものが虚空を舞う。
Xはほとんど反射的に手を伸ばして、中空でそれを掴み取っていた。開いた手の中には、薄青に輝く小さな宝石がひとつ。
そうしているうちに、王子と少女を乗せた車は行きすぎる。熱の篭った歓声に後押しされるように、ゆっくりと、ゆっくりと。
「そう、少女には不思議な力があった。流した涙が宝石になるという、力が」
魔女の声がスピーカーから聞こえてくる。
「魔女が少女を幽閉していたのは、その不思議を世間から隠すため、だったの。だって、そうでしょう? 無限に宝石を生み出す力なんて知られたら、大変な騒ぎになっちゃう。こんな風に……、ね」
Xは遠ざかっていく車と、手元の宝石を交互に見つめていたために、魔女がどんな表情をしているかはわからなかったけれど。
「どうして、彼女は、笑いながら、涙を流していたのでしょう」
Xが、煌く宝石を握り締め、ぽつりと問いを投げかける。魔女は「さあね」と声を返す。
「あなたはどう思う、旅人さん?」
「あれが、嬉しくて流した涙であればよい、と思いました、が」
そうでなかったとしたら――?
笑顔を浮かべながらも、ぽろぽろと涙をこぼしていた少女。この場に集った人々は、果たして少女を見ていたのか、それとも、少女から零れ落ちた宝石を見ていたのか。
王子と少女を乗せた車は、人ごみに紛れてXの目から見えなくなる。
「……二人は、末永く、幸せに、暮らしましたと、さ」
もう一度、低い声でXが呟く。だが、果たしてその言葉をXは信じていただろうか。私にはどうしてもそうとは思えないまま、スピーカーから響く辺りの歓声を聞いていた。
あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。