送信履歴#5(もしくは♭3’) 試練だと思うんだ。
うん、わかった。1泊で行けるところを探してみる。希望があったら教えて。
ぼくは君と違って山登りをしないから本格的な装備はもっていないけど、低山ハイクくらいならだいじょうぶ。だと思う。でも、本当に混浴の温泉でいいの? ぼくとしては、下心ありで君とふたりで入れるならいいけれど、ほかの男に君の裸を見られるのはいやだな。
それと、もう一度きちんと言っておくけど、君がいいんだ。前にも書いたけど、この2年、ぼくはある妄想にとらわれ、縛られていた。まさか君も窮地にあるとは思わなかったけど、周回遅れでぼくが追いついた感じかな。君に会って話して、ぼくの呪縛は拭い去られた。
君はぼくに救われたと言ったけれど、君がぼくを救ってくれたんだ。
君とはこれまでつきあったことはないけれど、もともと君がずっとぼくの中にあって、試練と苦難と重圧のピンチでもがき苦しみ、そんな穴ぼこに閉じ込められていたような八方塞がりの状態、そこにかぶせられていた蓋をぼくの内部から吹き飛ばしてくれた、そんな感じだった。
そう、元カノが関係してる。
ある日彼女は歯を立てなくったんだ。それまで口に含んでくれる時、ちょっとした苦痛があって、ぼくはそのことを指摘したことはなかった。布石だったわけじゃない。痛みも彼女とのふれあいと思っていたから。
ところが些細なことから彼女は機嫌を損ね、ぼくらは数か月の間合わなくなった。ぼくからは連絡し続けたけど、彼女は完全拒絶。LINEを打っても既読スルー。向こうからの音沙汰はいっさいなかった。
そして斜めになったご機嫌がうやむやになったころ、ひょっこり連絡がきて。ベッドを共にしたら彼女は変わっていた。
「歯をたてちゃだめだよって誰かに言われた?」
ぼくの問いに彼女は答えなかった。唇を軽く噛んですぐに平静を装ったけれど、ぼくはそれを見逃さなかった。
それで充分だった。
酸いも甘いも一緒に、じゃないけれど、積み上げてきた10年が早送りのビデオで流れて、衝撃の時間で止まった。積み上げてきたはずの10年すべてが嘘で、幻だったんだよと宣告されたみたいだった。幻に思えるのにそれでも信じられなくて、藁をもつかむ思いで通りすぎた10年にすがろうとした。だけどそれは透過し重みを失ない、ふわふわと宙に浮かんで風もないのに遠くのほうへ流れ始めた。
酸いと甘いだけならよかったのに、苦味なんてものじゃない、抱えきれない苦痛がぼくにねじこまれた。
「そういうことだったんだね」とぼくは言葉を閉じた彼女に続けて尋ねた。
それにも彼女は答えなかった。
それでもぼくは彼女にとらわれ続け、会っては抱くことをやめられなかった。彼女は抱かれることで赦されたと思い込み、ぼくは抱くことで取り戻そうとしていた。
快楽の抱擁に溺れその交わりの快楽に抗えず、ぼくは無心で彼女を愛した。ずっと抱き続けていれば地盤沈下を起こしたぼくの心を欺いていられる。ストレスをほかのストレスでごまかすように、ぼくは一時狂ったように毎日彼女を抱いていた。
だけど、いくら肌を重ねても、彼女はもうかつてのぼくじゃないことを感じとった。ふたつに割れたぼくの精神はもう彼女にとって、安寧の塒(とぐら)ではなくなったんだ。
裸の彼女がある時ベッドにぺたんと座って「ごめん」とこぼした。
うつむいた顔から落ちた滴がシーツに小さなしみをいくつもつくっていったのを、ぼくは呆然と眺めたことを覚えている。
頭の中は空っぽなはずなのに、その意味するところがぽっと浮かんでは消え、次の可能性を探り始める。やがて、それまで浮かんだ悪い思いがいっせいに押し寄せて、撞木(しゅもく)が頭蓋骨の内側をめった打ちにしているみたいになった。悪い考えが一緒くたになって渦を巻き、闇の奈落に堕ちていく、それが手に取るようにわかる。
彼女は自分の過ちを謝罪したのか? いや、謝り方には意思がにじみ出る。彼女の謝罪は「もう続けられない」の意思表示だ。
無造作にベッド脇に投げ捨てたティッシュが肩をすぼめていた。体液もろともぼくの生気が体から全部流れ出したみたいだった。もう何も残っちゃいない。空虚だった。もう二度と目にすることはないだろう彼女の涙。あのシーンが悪夢と重なってぼくを苛んできた。
過ぎて取り戻せなくなった時間には手を伸ばせないのに、ぼくは切なさと諦観と叶わね期待にしがみつき、そこから抜け出せなくなっていたんだ。
考えない日はなかった。忘れようと思ってもとらわれ続ける毎日。
もう充分に考え抜いた。
だからこれ以上考えるのはよそう。
でも悪夢は諦めの悪いボクサーみたいに何度でも立ち上がる。
そんな毎日。
彼女の非、そうさせたかもしれないぼくの拙さと責任、ぼくの包容力不足、彼女の身勝手さ、都合よく見られていたぼくの立ち位置。それらをいっしょくたに投げかけられ、それはな~んだ、と問いかけられて答えられない、そんな不毛な問答にずっと振りまわされていた。
それを君の出現があっさりと覆してくれた。ぼくは君に救われたんだ。
その衝撃たるやいかほどのものだったか。
だからぼくにできることならなんでもする。
君の会社の人間関係、君は自分にも落ち度があると言うけれど、これまでの話からすれば、歩み寄ることは難しそうだね。断言はできないけれど、判断するには情報が足りない。よかったら、もう少し具体的に聞かせてくれないかな。好転させられるきっかけが見つかる可能性だってあるし、限りある経験の中からアドバイスできることもあると思う。
人間関係も試練。
前に読んだ本にこんなことが書かれていたよ。
『神様は、乗り越えられない試練は与えません』
乗り越えてみようよ、一緒に。
それと、送信者名のないメールが届いたんだけど、君が出したんじゃないよね。
「⚪︎△?×Q$=〜”>◆〜〜〜」みたいなやつ。
文字化けしていて、何のことだかわからない。
この意味不明メールが届く直前、スマホの調子がおかしくなったからそのせいかもしれない。デバイスがね、なんだかショートしたみたいにジジって音をたてて、それからモーターのまわるような音がしたんだ。バイブレーションとは違う「ぶ〜ん」っていう共鳴のような響きの。
パソコンと違ってスマホにはファンなんてついていないのに不思議なことがあるものだ。
(続く)