『令月のピアニスト』12/13 自己満足のピアノを聴かれる心境
夏が終わり、秋も暮れに向かって急ぎ足になっていた。
年の瀬を迎える間際、公私ともにクソ忙しいのにマツは挙式を終えた足でハネムーンに旅立っていった。そのマツが、頻繁にFacebook に写真とコメントを海外からアップしている。動画もあって、そのひとつを再生してみた。
マツが任子の後姿を追いかけている。コメントが喘ぎ気味なのは、急ぎ足の彼女に追いつかないからだろう。
待てってば、アツコ。
ん? それって尻に敷かれているみたいでちと情けなくないか、マツ。
プラハ・マサリク駅。日本ではまげを結った武士が闊歩していた江戸時代の1845年開業と解説が入る。くすんだ黄色の石造りの建造物はこぢんまりしており、通路も低く狭いが、風情があって現代的なプラハ本駅と対をなす、とつづくコメント。
「アツコー、どこに行っちゃったんだ?」
あ、その間抜け面、成田離婚を引き起こす失態そのものじゃないか。
とそのとき『エナジー・フロー』が遠くから流れてきた。その演奏は、長年鍛えあげてきた腕のたまもので流麗で繊細である。するとマツ「あ、いましたねえ」とにやり。その意図的な笑み。もしかして演出だったか。
プラハ本駅からレイルジェットでウィーンに発つまでの束の間を利用して、アツコが絶対に寄りたいと言い張った駅。コメントは、日本のテレビ番組で観て、中欧に行くなら立ち寄ろうとふたりで決めていた場所だと目を潤ませている。
こんちくしょう、のろけやがって。
映像はホームからパンニングして黒のアップライト・ピアノで止まりズーミングしていく。弾いているのはたしかに任子だった。何度も一緒にメシを食い、飲み、旅行をも共にした仲なのに、任子がピアノを弾く姿を見たのはこれが初めてだった。
ぼくの知る彼女はぼくの前でピアノを演奏したことはないけれど、彼女が弾いていたピアノが今、ぼくのところにやってきた。ぼくの部屋に、ぼくの知らない任子の一部が居座っているような気がした。それは、任子にとって捨てなければならない記憶であったろうか。手に入った次のもののために押し出された過去の記憶。ぼくの部屋のピアノは押し出された遺物であり、引き受けたぼくもまた〝生き場〟からはじかれた遺物であることと結びつく。
任子は捨てることで幸せをつかんだ。ピアノは幸せの犠牲だったのだろうか。
幸せ。妻はぼくといて幸せではなかったのか。妻は新しい男と、あるいは女かもしれないけれども、今現在幸せでいるのだろうか。歳を追うごとに純度が下がり混沌が制御をかけてくる感情に、手放しで「幸せ」とは言い切れなくなっていることはわかる。それでも彼女の幸せが不幸を上まっていることをぼくは祈る。今なら、そう言える。目の前で幸せを炸裂させた円日と結びついたことで、心根からそう言うことができるようになった。ぼくもまた、元妻につづいて、手に入ったもののために、押し出さなければならなくなったものを手にしていた。
それから円日の幸せを今いちど考えてみた。満面の笑顔と心の底に抱えた複雑な思い。ぼくは彼女に幸せを感じさせることはできるのだろうか?
彼女の本心を探る作業は月の裏側を覗くのと似ているかもしれない、とふと思う。月探索機が映像を地球に送ってくるまで、想像しかできなかった向こう側の世界、それは誰かが秘密の扉をこじ開けるまで、決して真実がさらされない世界。そして人のもつ宇宙は、どこかに必ず知られたくない裏側がある。
スマホの画面は演奏を流しつづけていた。任子の右手が高音に向かって流れるようにステップを踏んでいく。曲も終わりに近い。そして最後の単音で指を止め韻を引く。音が駅のドームの隅々に染み入っていく。
ほどなく余韻を引きとめる拍手が湧き起こる。
「では、これからウィーンに行ってきます。またお会いしましょう」
厚みを増した拍手を祝福にすり替えた締めのコメント。ふざけるな! ぼくは、仕事場でプログラムのチェック中だってことをすっかり忘れて、スマホに怒鳴りつけていた。
円日はいちどもピアノを披露してくれたことがない。少なくともぼくの前では。
「ピアノはまだとってあるのか?」と訊いたことがある。
「処分してしまったわ。きっと今ごろ、中国か中東の中産階級の人の手に渡っているんだわ」と円日は素っ気ない。言い方は「せいせいしたわ」だったが顔に曇りがよぎった。気持ちをざらつかせたのは諦観からか寂しさからか。円日の裏側もまた、覗きこむことができないでいる。
毎日が、いつもと同じように過ぎていく。仕様書に従ってスタッフがプログラムを積み上げていく。エアコンの温風にパソコンが放つ熱気が混じっていくのがわかる。意志で結束するぼくたちは、ときに仲間の作業を手伝いながら、自分の時間に戻っていく。つきあい残業はしない。チームでこなすべき仕事に歪が出たら、我が事として手を差し伸べ整合性をとり合いながら、終えて自分の時間に戻っていく。
自分の時間に、円日と過ごす時間が増えた。ぼくの家のシングルベッドで一緒に眠ることもある。そんな日には「弾いてみせて」と円日が駄々をこねる。たいがいが、遅いからと近所を気遣うぼくが断る。
「マドカにこそ弾いてほしい」とぼくがお願いする。
「遅いからだめって言ったばかりじゃない」
円日にたしなめられる。
「ぼくはヘッドフォンで聴くから」
そう言うと「ずるい」とふくれて、可愛い女を演出してみせる。
なんとか音を追える程度の『イマジン』を披露した。ぼくが弾いて円日がレコーディングをたしかめるようにヘッドフォンに神経を集めた。惹き終わると決まって「素敵」で締めくくる。
「弾いてみてよ」
お願いしても頑なに円日は弾かない。鍵盤にふれようともしない。円日の決意は月の石ほど固い。この話題になると判で押したように浮かべる苦渋の表情を隠そうともしない。しかたなくぼくがつづけて弾く。『人生のメリーゴーランド』を、『ピアノマン』を。もてる(本当に限定された)レパートリーのすべてを。弾く鍵盤を記憶から呼び戻す速度が指の動きについていかなくなると演奏が止まり、思い出してつづきを弾こうとすると曲を見失い最初から、そんなこと、しょっちゅうだ。
そして、初めて楽譜で弾いた『月光』を弾く。YouTubeでプロの演奏を手本に、演奏に磨きをかけつつある途上のほんの入り口にさしかかったばかりの『月光』を奏でる。音を切るところではダンパーを離し、強弱のつけかたも自分なりに調整できつつある。
誰に聴いてほしいとも思ったことがないピアノ。聴衆がひとりでもいると緊張が邪魔をしてつかえるピアノがますます弾けなくなっていく。ぼくは聴いてもらうためのピアノを弾いていたわけではないことに、この時点でやっと気づく。弾いている自分を意識すること、自分の時間の中にピアノ演奏が組み込まれていることにこそ満足があった。聴衆が円日でも、聴かれると演奏に集まっていた神経が乱れることがなによりの証じゃないか。
つかえながらでも弾いているさいちゅうに、「令月って、万葉集にあるのよ」と円日が口をはさんだことがある。『月光』を演奏しているときだった。珍しいことだ。いつもなら、ぼくが鍵盤から指を離すまで話しかけてこないのに。
「なにそれ?」とぼくが止まっていた指を鍵盤から離し、訊く。
「時代が変わって、しなければならないことに意味がついてくることがある」と彼女はつづけた。
「どういうこと?」
そういえば、ぼくは彼女に何度となく、彼女が放つことばの意味を尋ねてきた。だけど、彼女はあんまり正面から答えてくれたことはない。ぼくが気づくまで待っているわ、と暗示しているみたいにその都度思う。
気づかないぼくが鈍いのか?
「ごめんなさい、邪魔しちゃって。つづけて」
円日はぼくの演奏に割り入ったのではなかった。音階が一段上がるエンディング間近でぼくは追うべき鍵盤を見失い、鍵盤上で指が迷っていたのだった。
ふたりでいるのに、円日の存在を忘れて自分の世界に入りこんでいた。聴かれることにはかき乱されるのに、弾いて浸り切れば没頭できる。没頭の中で迷ったぼくに円日が手を差しのべ現実に引き戻してくれた。
元妻はぼくたちの関係を祝福してくれるだろうか。円日は元妻と夜を過ごしたぼくの部屋で、心を平穏に保つことはできているのだろうか。ぼくはこのまま『月光』を弾きつづけていいのだろうか。いろいろな思いがあぶくのように湧いては消え、演奏が終わると思い浮かんだ描画のすべてがいっせいになりをひそめた。
静寂だけが残されていた。ぼくは沈んでしまった無音の中で弾いたばかりの鍵盤をイメージの中でなぞってみた。どんなに指を動かしても、ぼくには届かない音。聴こえているのはヘッドフォンを耳にかけ直し、目を閉じて曲に揺れてる円日にだけだった。おぼつかない指先でやっと楽譜を追いかけられるようになった腕前に、なぜそこまで陶酔した顔ができるのか、ぼくには不思議でならなかった。
「素敵」
それでも円日は1曲弾き終えるごとに笑みを炸裂させてぼくの腕にしがみつく。
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。