アドボカタス 『しなやかなバネ』
『送信履歴』毎回読み切りのスピンアウト ~readerのボランティア 7~
ワタシはreader。
読み上げる人。
訳あって、ボランティアでアドボカタスをしているの。
アドボカタスとは代弁する人。
ワタシなりの解釈では代筆ならぬ代述する人なのだけれども。
言いたいのに言えない人、伝えたいのに伝えられない人、届けたいのに届けられない人、そんな人って思いのほか、たくさんいるのよね。
私はそんな言葉にならない言葉を読み上げる。
どうしてだろう。
世の中の時計は早く進むようになったのに、悠長に小豆が茹で上がるのを待てる人がいる。
締め切りが迫っているのに、うんうん唸っている人がいる。
私の気が急いているのに気がつかない人がいる。
小豆は缶詰にして、書く人はちゃっちゃと仕上げて、気がつかない人はもっと努力して私を助けてくれればいいのに。
振り向けば、ほら、後ろから秒針が追ってくる。
あなたがたにはそれが見えないの?
ビデオ講義は講師が早口だし、食堂は注文するとすぐにサーブしてくるし、寝てもすぐに目覚めるし、トイレットペーパーだってあっと言う間になくなるわ。
おまけに天気も急いでいる。晴れていたのに雨降って、それから寒くなったあと急に暖かくなる。どうすりゃいいのさこの私、傘とコートはいつたたむ?
時計は、私の知っているころより2倍は早く進むようになっていた。
いけない、こうしている間に時間が無駄に流れていく。
「行ってきます」で家を出て、電車に揺られて20分。電車の20分。この時間だけは、未だに時計に追いつけないでいる。あー、まったくもう! 気持ちが焦れる地上最悪のロスタイム。通勤時間はこの世の地獄のひとつだわあ。
仕事は、私の勤め始めのころより2倍はこなさなければならなくなった。
パソコンはだめ。起動してから使えるまで時間がかかるから。そのわずかの待ち時間が命取り。
え? 何が命取りか説明しろですって。
だめ。時間がもったいないから。
仕事場はタブレットPC。スイッチオンで即仕事モード。
メールチェックに返信に、POSで届いた売上まとめて日報仕上げて。
世の中には、人知では追いつかないほど大量の物品がさばかれているの。
私はその中でも“食流通のエキスパート”。求められているものを求めている人に、正確な量を間違いのない時間内に届けるの。遅れたら一大事。おまんまにありつけない悲劇を生むわ。
「おーい、お茶」
能無し課長は、未だお茶くみ社員がいて当然と信じて疑わない。いけないのは、それに応じる女子社員がいることだ。なんと嘆かわしい実態か。これでは会社はいずれ滅びる。
だめなんだ。仕事をしない人間飼っていちゃ。
そう、仕事をしないのは、古今東西ペットと決まっている。
ペットでも仕事をすれば意味がある。キャッチボールをするイルカは泳ぐだけのイルカとは違う。三輪車を乗りこなすチンパンジーはきぃきぃ餌をねだるだけのチンパンジーとは違う。喋るインコは無口なインコより相手にしたいと思う気持ちが強くなる。ペットでも仕事をすれば働く人の領域に近くなる。
課長やあのお茶くみはどうだ。仕事場にいながら仕事を放棄する言動、大事な時間の何分かをうっちゃるなんて言語道断。仕事をしないペットよりたちが悪い。仕事をするペットと比べたら雲泥の差だ。
それに、労働しない時間は、稼働率を下げることでもある。同じ時間の労働で中身が違ってくる。私が時間内で100の効果を出すとしたら、連中はさしずめ60とか70といったところかしら。これで給料が一緒とは納得いかないわ。
どうにかしてくれ社長さん、そんな思いもあるにはあるが、クレームつけちゃ、自らつくる無駄時間。
ランチタイムは30分短縮し、私は18時までの定時を17時半で切り上げる。
「いいでしょ? きっちり8時間働いたんだから」
文句はないでしょ、の代わりに鼻を鳴らし、班長席に座ったまま右手だけを突き出し引きとめようとする課長の「待ってくれ~」を振り払い、私は会社をあとにする。
誰にも文句は言わせない。残業する輩より仕事もこなしているし。
困ったことがある。
世の中の時間が早く進むようになってきて、私は会社を出たあとの時間を持て余す。
家に帰ってもテレビを5分観ては経過時間を確認し、シャワーに時間をとられすぎていないか気が気じゃなくなる。
時間が私を追いかけてくるせいだ。
夜12時就寝と決めている。
床に就くまでの時間の長いこと。
いや、正確には長いわけじゃない。時間の経過をいちいち確認していると、倍速で流れる時間の余白がびたびたと埋まっていく。
そろそろ寝なければいけない。明日もある。明日も倍速で仕事をしなければならない。
おやすみなさい、で4時に起きる。
支度をぜんぶ済ませても、まだ5時前だ。
出社には早い。
困った。
こうした困ったがいくつか重なって、私は倍速で考えた。
考えるのに、自分の手のひらを見つめる行為が必要なような気がした。
うつむいて手のひらを広げてみた。
こんなにまじまじと手のひらを見つめたのは、いつぶりだろう。
思い出した。中学の体育祭でリレーをして以来だ。ランナー4人の2番手を任された私は、バトンを渡す直前、転んで最下位になってしまった、あの時以来だ。それまでせっかくトップを保持していたのに、落としたバトンを追いかけて、それでびりになった。
追いかけたバトンは、そう、あらぬ方向に飛んでいったのよ。それをおむすび追う爺さんみたいな恰好で、まぬけに追いかけたんだっけ。
拾いあげて第3走者にやっとのことで渡したら、彼女、開いた口をわなわな震わせて、悲しくて悔しい罵りを顔に浮かべていた。
わかってる。ぜんぶ私のせいなんだ。
最下位でアンカーがゴールした直後、私はふいに手のひらを見たくなった。
手には、グラウンドの砂がいっぱい貼りついていた。その時思った。砂って、指の間から落ちていくものじゃなかったっけ? と。
砂は、落ちてはいかなかった。私の汚点を許そうとしないみたいに。
払うこともできなかった。払ってしまえば、なんだか私、自分の責任を自分で払いのけているみたいに見られてしまうと思ったから。払うことで私が自分を許したみたいに見られるのがいやだった。
ああ、私の時計はあの時から早く進むようになっていたんだ。
トップを保持していた瞬間が、汚点をなかったことにして、ワープしたみたいに次の時間につながっていた。
いや、意図的にそうしようとしていたんだわ。
忘れるために。
思い出すことのないように。
追いつかれることのないように。
バトンは落とせない、と自分に言い聞かせてきた毎日。落とすことなく、トップをキープすることも譲れないと考えていた。誰よりも先を走っていなければならなかった。
誰にも悲しくて悔しい罵りの顔は向けさせない。
手のひらがぶわっと輪郭を失くした。あの時と同じように。
readerが読んだのは、彼女の時計が早まるきっかけだけだった。
彼女は、ソレを忘れたい汚点と考え、封じ込めたい過去だとずっと思い続けてきた。
思いはやがて鉄壁の意志となり、その過去を完全に覆い隠していた。
だけど、時間は自分ひとりで進められるものではない。軋轢が歪を生み、仕事場が殺伐としてプライベートが苛立ちに塗りたくられていた。
元に戻るまで時間はかかった。だけど、最近になって周囲の見方が変わってきた。
「ねえねえ、最近彼女からぴりぴりした感じがなくなったわね」
仕事は今までどおりきちんとこなす。それが彼女の存在意義だから。
でも。
課長が仕事に頭をかかえ髪の毛をかきむしっていたりすると、お茶を淹れてあげるようになった。ランチタイムに評判の店に足を運んで、きっちり1時間の休息をとるようになった。同僚の仕事が遅れていたりすると、手伝うこともある。
不本意だけど、残業もちょっとは。したりしなかったりだけど。
小豆? 最近茹でるようになった。焦らず、ゆっくりとね。
私は、と彼女が考えていることをreaderが読んだ。「私は、ファーストランナーじゃない。アンカーでもない。その間をつなぐランナー。あの時と同じ第2ランナーなのかもしれない。そして第2ランナーとして、私はバトンをつながなければならなかったんだ、きっと」
忘れたはずの汚点が、彼女のバネになった。そのバネはしなやかで明るく、確かだった。
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。