『令月のピアニスト』10/13 幻想曲風ソナタ『月光』
駅に向かいがてら「もてたのかと思ったよ」と照れ隠しでおどけて言ってみせた。待ち伏せされたとすれば期待もあるという思いが掠めた気の迷い、うっかり口からこぼれ落ちた。
「まさかあ、田所さんとは」と粕賀に渋い顔をされた。
冗談のつもりで言ったはずなのに、粕賀の返答に胸がずきんと痛んだ。冗談だったんだよ、そう自分に言い訳をする。あれは、心の隙間が出現させた感情の逢魔が時のせいなんだと。
しばらくは誰ともつきあうつもりはなかった。誰かと交われば閉じかけた傷がぱっくりと口を開きそうだった。ひとつ笑えば、笑った分だけ傷口がみりみりと裂けるような気がした。新しい傷は、きっと過去を意地汚くほじくり返してくるに決まっている。
深く考えることもよした。深く考えれば〝たられば〟に囚われ、できなかったこと、しなかったこと、足りなかったものが無尽蔵に吹き出し降り注ぎ、ぼくの全身全霊を蝕んでいく。
「でも、好き」
温度を削ぎ落とした冷たい言い方だった。背筋を冷たくしたのは、装飾を排し核心を突く鋭さにやられたせいだった。だがそれは、彼女がぼくに向けた愛からではなく、ピアノを好きでいるぼくに好奇の目を向けているからだと思い込もうとした。気持ちが揺れたことは認めよう。だが本心ではこれ以上、傷を広げたくはない。
粕賀はこれまでの認識を改めざるを得ないだけの骨太のバックボーンを持っていた。ただの世間知らずではなかった。名曲堂楽器店で粕賀は輝いていた。表舞台に立つ道は選ばなかったけれど、彼女を照らすスポットライトはすべて消え失せたわけではない、そんな気がした。
頭上から降り注ぐ月光の音色が変わり、耳にさらさらという音が届く。場所が変われば月の音が変わる。あるいは共にいる人が音の質を変えるのか。粕賀と受ける光の指は鍵盤を追い、奏でられた音が光に化身して宙に舞い、降り注いでくるようだった。『ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2【幻想曲風ソナタ】』。月の光は『月光』だった。
月明かりに耳を傾けていたふたりが駅に着く。改札口で粕賀が、じゃあ私はここで、と口を開いて手を振った。彼女の家は駅から歩いて5分ほどだと言う。送るよと言うと、それにはおよびません、私が田所さんを送ったんだからと制されてしまう。月の光だけが誰にも制されることなく地面に落ちていく。
「じゃあ。明日も頼むよ」と手を振った。
改札に向かい歩きはじめると、「今度」と粕賀に呼び止められた。「会社、早く終わった日に王子に行きません?」と振り返ったぼくに言う。
「王子? なんでまた」
「ゲストハウスができたんです。ラブホテルだったところ。そこにアップライト・ピアノが置いてあって、自由に弾けるんです」
電子ではなくアコースティック・ピアノ、知らぬ者同士がことばを交わすゲストハウス、そして元ラブホテル。最後の一語が意味深で、不埒が波をたて尾を引いた。
電車に乗った。揺られていると田舎町のローカル線と音が違うことに意識が向かっていった。旅先の列車はレールの継ぎ目にフェルマータがかかるのに、都会の電車はひっきりなしで忙しい。都会の電車は新世界にも停まらないし、鳥捕りに出会うこともない。カムパネルラも現れないし、さよならを告げられることもない。さようなら。妻が選んだ最後のことばは「さようなら」ではなかった。「別れてください」だ。さようならには思慕があり未来の邂逅に一条の光がさしている。だけど「別れてください」は一方的で冷酷で決定的なうえに次がない。断ち切られる思慕。行き場を失くした感情が首を失くした蛇のように未来永劫、地面をのたうちまわるだけだ。
耳が、遠くの鐘をとらえた。鐘は忙しく響き渡っている。音は車窓を通して聴こえてくるのか、頭の内部で鳴らされているのか、妻とのことで思考がかき乱されたせいでよくわからなくなっていた。あるヴィジュアルが浮かんで消えた。わずかに見えた映像から、鐘は指で奏でられていたことがわかった。
思い出したようにgnomeが気にかかることがある。才能を守る小人は、果たしてぼくの才能を解放してくれるのか。それとも、そもそも才能の匂いに実などなく、実のところ見切りをつけようとしているのか。それも、同じスペルのGNOMEでグノームと表現するゼミでの研究課題と、透かし絵同士を合わせたみたいに重なるせいだ。
ゲノームは2010年過ぎからフォークにより、デスクトップ環境を他の技術に受け渡しつつある。もともとGNOMEのソースコードから枝分かれしたわけだから基本には消えてはいないのだが、主流の座は潮流の最先端に引き渡してしまった。
今ではCinnamonやMATEのほうが通りがよく、GNOMEは血肉の一部と化して表舞台から姿を消した。8年以上前のことだ。商社勤めのマツに言わせればたかが8年と笑い飛ばされてしまう年月だが、デジタル世界の8年は人類が歩んできた100年に匹敵する。いや、現実にはそれ以上だろう。
かつてグノームがその価値を未来へつなげるだろうと期待されていたとき、心血を注ぎながらもいつどこで余所者に取って代わられるかわからない不安に怯え、払拭しきれずにいた技術者たちの猜疑心。ノウムもまた、ぼくの才能を疑心暗鬼で探っている。
妻の手を取った影の男が月光に照らされ、(白日ならぬ)白月のもとにさらされた。スーツ姿で髪は短くビジネス・シューズの靴底をできる男ふうに響かせてはいたけれども、丸く小さな顔、細いウエスト、なだらかな曲線を奏でる脚線、そこから踏み出される脚のずっと伸びるシルエット。決定打が端正な男装化粧、胸のふくらみ。僕から妻を奪ったパートナーは男ではなかったのか!?
またしても嫌な夢だった。
上弦が欠けはじめ半月が過ぎたころ、名曲堂楽器近くで会社帰りに粕賀とベトナム料理を食べた。初めて休日を一緒に過ごした週末。仕事の話はいっさいしなかった。
粕賀はハノイの交通事情と東京のベトナム料理店事情にやけに詳しかった。ベトナムに行ったことがあるのか? 尋ねると、これから田所さんと一緒に、とお約束の答えが返ってきた。人の話をはぐらかす才能は相変わらず一級だ。直後に「ダン・タイソンって聞いたことありますか?」と訊かれたが、ぼくにはそれが人名なのか地名なのかあるいはそれ以外の名称なのかさえ区別できなかった。
食後に王子のゲストハウスに向かった。ピアノは中国語を話すグループの若い男に占領され、陶酔顔でクラシックが途切れない。人に聴かせるレベルの腕前で、モーツァルトかな、とこぼすと粕賀が、当たり、と我が事のように喜ぶ。曲名を教えてくれたが通称じゃなかった。ピアノ・ソナタ第4番変ホなんとかという作品番号だ。資料の整理番号と同じ、風情と曲のイメージを刮(こそ)ぎ取られた囚人番号のような名称では、いちど耳にしただけじゃ覚えきらない。
「ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調 ケッヘル282」、粕賀が見透かし、ぼくの脳みその皺に刻みつけるように口に含んでゆっくりとたしかに曲名を繰り返した。言い終わるか終わらないうちに曲は次に移っていく。
「なかなか弾けないね」、宿泊者ならずとも飲食ができるゲストハウス併設のカフェ・バーで、ぼくは珍しくコロナをラッパ飲みしながら、彼女はジンジャエールのストローを吸いながら、順番待ちをしている。
「何を弾いてくれるの?」、訊くと粕賀、あからさまに驚愕を表し眼を丸くする。何を言ってるの、とその仰天した顔が語りかけてきた。
「田所さんが弾くのに決まってるじゃない」
「まさか」
苦笑いがこぼれる。このタイミングで、驚かすんじゃないよ。
「あんなに上手な人のあとに弾けるわけないじゃないか」、焦りが冷静さを欠いていたのだと思う。
「ふうん」、粕賀、なにやら意味ありげである。「弾けることは認めるわけね」。
そうきたか。トラップだったわけね。粕賀といると、調子を狂わされっぱなしだ。考えてみれば、うまい具合に張り詰めた空気を緩められているようにも思う。初めてそれを、悪くないなと思ってしまう自分がいる。
その日、結局は弾かずじまいで次回につなぐ約束をした。訊こうと思っていたダン・タイソンを訊きそびれてしまった。まあ、いい。自分で調べればすむことだ。
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。