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『令月のピアニスト』8/13 追い抜かれ追いつかれた日

 ネットをサーフすると、フジコ・ハミングも辻井信行も、名だたるピアニストの演奏が聴ける。テレビの駅ピアノ、空港ピアノ以外にも、ストリート・ピアノもあれば、ピアノを設置した音楽室を提供する自治体が存在することも知った。
 情報網の波で見つけたいちばんの収穫は、YouTubeにはピアノの先生があふれていると知ったことだった。主にアメリカのサイトではネット・レッスンがポピュラーなのか、クラシックからジャズのまるごと1曲を、あるいは演奏テクニックを映像で、サイトによっては時系列で構成されるデジタル鍵盤図を交えて指導してくれる。さすがに英語はハードルが高いが、ことばに壁はあっても見てりゃ弾き方がわかる。
 世界共通語の音楽は国境を越えて好奇心の容器に遠慮なくなだれこんでくる。レッスン・サイトを見つけてはiPadを譜面立てに横起きし、1、2小節を再現しては停止して巻き戻し繰り返し視聴。演奏する鍵盤をたしかめながら曲を細切れに再現、ひと区切りずつを積み上げていく。
『イマジン』の目標、1コーラスを楽譜で仕上げながら、YouTubeでビリー・ジョエルの『ピアノマン』を追った。
 音は相変わらず棒立ちで流麗にはほど遠かったけれど、演奏する自分に酔うことはできる。ジブリの楽譜も開いてはみたが、楽譜を追うよりいい方法を見つけたことで、しばらく書棚で休んでもらうことになった。
 YouTubeに教わるようになってから、『ピアノマン』をフル・コーラスで音を追えるようになっていた。ピアノ演奏とは摩訶不思議。弾けるようになれば楽譜に書かれている音符から弾くべき鍵盤が透けてくるようになる。ほどなくしてジブリの初心者用楽譜を開くと、弾くべき鍵盤が理解できるようになっていた。
 曲は『人生のメリーゴーランド』。1日2時間弱。10日あまりで音をたどれるようになった。
 そろそろ『月光』にいってみるか。明日も残業は2時間ほどですむはずだ。帰りに名曲堂楽器に寄ってこよう。時計を見ると深夜2時に届くところだった。衣類は元の鞘に収まるようになっていたし、鍵盤蓋を邪魔する者はもう誰もいなくなっていた。

 翌日。珍しく8時に帰り支度をはじめることができた。
「区切りがいいので上がらせてもらうよ」
 オフィスの窓が拾う光にネオンが混じるようになって2時間は経つ。
 夜の光は不思議だった。どんなに煌々と光輝いても、陽光とは違って闇を照らし切ることはできない。闇は闇として間違いなくオフィスの壁の向こうで存在感を増していたし、人工的な光は、太刀打ちできないながらも精いっぱい抵抗し虚勢を張っているように見える。
 月の光はどうだろう。闇を中途半端に残したまま、照らす世界を蒼く包むあの妖艶な光は。
 蛍光灯の光に照らし出された職場は、区切りのつかないスタッフたちの仕事モードを煽りつづけている。急かされる光に彼らはひっきりなしにテキストと記号を書き込みながら、DeleteとBack spaceで2歩も3歩も下がっては、新たに文字と記号を積み上げていく。
 このころになると夜間でも気温は下がることなく、室内を冷やすエアコンの室外機が唸りを絶やすことはなくなっていた。会社に残っているのはうちととなりにある第2制作部の連中だけだ。総務、経理、営業部の電気はコンプライアンスを証明するみたいに今日も5時半きっかりに消されていた。
「おつかれさまでしたあ」
 気の抜けたスタッフの対応はいつものこと。集中を切らさない惰性の返事。いちいち体育会のりではちきれんばかりの挨拶をされても、作り元気に神経を遣うことで能率が下がったら本末転倒であることを、この会社に勤めるみんなが心得ている。
「さま、でしたあ」
 画面を睨む粕賀が、よほど仕事に集中しているのか、あるいは時間に追われているのか、鋭い目線とかけ離れた腑抜けな声で、ひとり言のようにあとを追った。

 新宿の繁華街を抜けるといったん裏路地の住宅街に入る。寂れた街灯に、施錠の行き届いた門のない家々がつづく。玄関に備え付けの電灯は申し合わせたようにスイッチが切られている。闇を照らし抑制するはずの明かりなのに、闇と同化し助長するオフ、かつてこの路地で夜の女が脚線美を見せつけ男を誘っていた。その裏路地を、月の光がひたひたと濡らしている。

「来ると思ってました」
 蛍光灯で照らされた名曲堂楽器の奥、楽譜コーナーに、粕賀がいた。1駅歩くぼくを、1駅乗った彼女が追い越していた。
「なんでおまえがここにいるんだ?」
「なんとなく」、 粕賀は後ろ手で体を前後に揺らして喜んでいるふうだ。
 すると奥から「マドカちゃん、お待たせ」と、かの白髪ヒッピーふうの人物が1冊の分厚い本を持って出てきた。
「ありがと」、粕賀がそれを受けとる。
「なんでまた今さらながら楽典なんかを?」
「就職したときに捨てちゃったから。たまには左脳を刺激しないとね」と茶目っ気でウインクしてみせた。
 円日ちゃん? ガクテン? なんだ? 予想もしない断片が次々に飛び出してくる。
 粕賀が老人に「こちら会社の上司の田所さん」と友だちみたいに紹介する。
「はあ、どうも」(間)「どういうこと?」
 粕賀に説明を求めようと顔を向けると、うふ、と焦点をずらされた。
 瞬時に場の空気を読み取った白髪の老人が「ユリちゃんは、この子がちび助のころからのお得意さまでね。お母さんが音楽教育に熱心で、てっきりピアニストになるのかと思っていたら同じキーボードでも音楽じゃなくパソコンのほうに就職したってんで、あのときは驚かされましたよ」と助け船を出してきた。
 ピアニスト? 音楽教育? 混乱が混沌に呑み込まれていく。
「えっ、どういうことですか?」
 尋ねるも老いた男、「あなた、この間ベートーヴェンの楽譜をお求めになられようとした方ですよね?」
 ぼくの質問に答えるより彼はぼくを覚えていたほうを優先させた。そんなことより、ぼくは今のこの状況を把握したいのだ。

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青村 音音(アオムラ ネオン)
この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。