見出し画像

車よりも早く歩く父親の件

 私の父は歩くのが速い。自宅から最寄り駅までの徒歩10分の道のりを、歩いて7分で着いてしまう。そして涼しい顔で、息一つ切らさず電車を待っている。昔していた運動は、はるか太古の中学時代に卓球部にいただけ。それにも拘わらず人を置いてけぼりにする歩みの速さには感動すら覚える。きっと女の子にはさっぱりモテなかったに違いない。

 そんな父の早歩きは、とんだ都市伝説を生みだした。小学校4年生の秋。私のクラスは発表会で影絵の劇を披露したのだが、その様子を父がビデオテープに収めてダビングしてクラスに寄贈した。暗がりでの撮影に失敗したクラスメイトのお父様たちが家で鬼に雷を落とされているのを噂に聞いて、憐れに思ったらしい。父はこの件でクラスメイトに顔を覚えられた。
 それから数日後のことである。教室に入ると、なにやら人だかりができて騒がしい。何事かと思って近づくと、「お~噂をすれば」とはやし立てられた。目をパチクリさせていると、クラスメイトが私に目を輝かせてこう言った。
「お前の父ちゃんすげーな、車より早く歩けるんだぜ!」
意味が分からない。私は何かの勘違いだと返したが、一歩も引かない。彼によると、私の父はなめらかな足さばきで彼の乗る車を風のように抜き去っていったという。そんなばかな。私は家に帰り、おそるおそる父に訪ねた。
「父さんって、車より早く歩けるの?」

 からくりはすぐに分かった。交差点で信号が黄色になり、スピードを緩めた車を偶然すぐ脇の歩道を歩いていた父が追い越したらしい。そのときクラスメイトのお父様が、ビデオテープの件で私の父に車越しからお礼の言葉をかけてくださったようで、父はクラスメイトのことを認識していた。父は言った。
「その子、もっと勉強した方がいいよ。車より人間が速く進むわけないんだから」
微笑ましいという言葉は父の辞書にはないようだ。根っからの理系人間で、血が通った存在よりも無機質なものとの方が相性がいいから仕方がない。とはいえ、その父がクラスメイトを認識していたことに私はちょっぴり嬉しくなった。

 

お読みいただきありがとうございました。頂いたご支援は執筆作業に行くカフェのコーヒー代として大切に使わせていただきます。