ADHD当事者が語る「気が楽になった」という言葉への違和感

 私は、ADHDだ。ADHDとは、発達障害の一つである。以前は子供に限った話とされていたが、昨今の研究で成人した大人にもありうることが明らかとなり、ASD(アスペルガー症候群)やLD(学習障害)と共に「大人の発達障害」と呼ばれるようになった。ADHDの症状の詳細はここでは長くなるので割愛するが、仕事をするという場面で問題になるのが現代の多くの仕事では命取りとなる「マルチタスクが極端に苦手」という症状だ。
 

 私は事務作業から営業まであらゆるタイプの能力を個々人が求められる職場にいた。あらゆる場面でミスが続き、上司のパワハラも相まってストレスが重なった。しばらくすると、職場に向かう途中で怖くなって涙が出たり、急にめまいがするようになった。私はおそるおそる心療内科にかかった。
 症状を説明したところ医者からADHDの話をされ、試しに診断テストを受けると結果はクロ。私は症状を緩和する薬を処方され、職場で私と共に仕事をする人たちにだけADHDを打ち明けた。そのときの周囲の反応は、思いのほか様々だった。理解しようと努めてくれる人もいたが、残念ながらそれは少数派。たいていは腫れ物に触るように扱う人か、診断書を提出したにもかかわらず、ADHDであることを信じてくれない人に分かれた。私は思った。期待したのがバカだった。

 その後唯一の理解者が直属の上司となり、私は仕事で結果を出すことができた。昨年の担当者が出した数字の約2倍の契約数をたたき出した。小さな会社とはいえ、社員全員の前で社長直々に褒めて頂いた。しかし、そんな自慢話も私の症状を配慮してくれる人の存在があったからできたわけで、私一人の力ではなかった。その人が私のもとから離れた途端、私は一気に元の仕事ができないお荷物社員に逆戻りしてしまった。
 私はリマインダーを駆使し、メモを取っては終わったタスクにチェックを付け、それでも処理しきれないときは上司や先輩に相談した。しかし、異動したてなどの様々な事情で余裕がない人が多かったことも重なり、周囲は私を邪険に扱うようになった。余裕がない時に、気を遣わなくてはいけない存在と向き合うのは確かにストレスのかかることだ。それが分かっていたからこそ、なるべく一人で対処しようとしたのだが、限界だった。ADHDならば薬があるだろうと思う方もいるだろう。私は薬が身体に合わなかった。正確には、飲んでも全く効かなかったのである。結局、私はお荷物な自分に嫌気が差し、精神を病んで会社を辞めた。
 私は自分を呪った。前世で人を殺めたのかもしれない。だから、社会のゴミに生まれ変わったんだ。何で生まれてきてしまったんだ。私は誰からも、必要とされないんだ。今すぐ死にたい。何度も心が自殺した。そんななか、私はADHDが取り上げられている番組を見た。しばらくすると、ADHDと診断された出演者がこう言った。
「ADHDと診断が出た時は、もうこれで自分を責めなくていいんだと気が楽になりました」

 しかし私はそうは思えなかった。正直、怒りすら感じた。努力を放棄している。無責任だ。こいつはADHDを免罪符にして、自分勝手に生きているんじゃないか?同じ境遇の人間が苦しまないことが許せなかった。職場に馴染み、結果を出し、自分の存在意義を生み出すために、できる限り死ぬほど努力を重ねる日々。いつのまにか、苦しむ状況下にいる自分がアイデンティティになっていた。だから「気が楽になった」という言葉は自分の生き方を否定されている感じがして、胸糞悪くて吐き気がした。
 そもそも極論かもしれないが、発達障害やそれらのグレーゾーンについての議論は「誰しも得意・苦手はあって、その程度が著しく酷いかそうでないかという問題」とも言えてしまうと思う。健常者からしたら、深層心理ではそれがもっともしっくりくるのではないだろうか。第一、現代の日本はストレス社会だ。健常者でさえ普段は気を張って生きているのだから、余裕がない精神状態の人も少なくないはずだ。そこへ身近にいる人から、ある日突然「私はADHDです」とでもカミングアウトされたら、よく知らないアルファベットを水戸黄門の印籠の如く振りかざされて「だから配慮してちょーだい!」と言われている気分になるのも無理もない。だから当事者でありながらも、「それは甘えだ」という人の気持ちも何となく分かってしまう。

 分かっている。気が楽だと受け入れた方が、生きやすいはずなのだ。しかし、それを自分のなかにしぶとく残るプライドが許さない。
「お前は、自分の力で這い上がり、人の役に立って見せろ。今のままでは、お前は生まれてきた意味がない」
そんな声が、時折聞こえる。

 おそらくこれをADHDの当事者が読んだら、過半数は気分が悪くなるだろう。申し訳ないが、それでも私は自分の気持ちを、あえてここで主張したい。健常者からすると「怠けていてミスも治らない社会のゴミ」に見える存在が、ここまで悩み抜き自分を痛めつけながら生きている現実を、生々しく伝えたかった。それだけだ。

 



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