見出し画像

私の日記をリカバリーの物語として読む⑥ 入院が決まった日

今回からは、入院後のお話を書こうと思いましたが、入院する直接のきっかとなった、当日の出来事を書いておこうと思います。振り返れば、この日が、私の予後とその後を大きく変えたのだと思います。命を救われた出会いでした。

🔷入院を決めた日のこと 🔷

医療機関からも見放され、もう何の手だてもありませんでした。常に続く全身の強い倦怠感と浮遊感。足先の感覚はほとんどなく、麻痺としびれは太腿から脇腹に進行していました。顔面にも軽いマヒが出始めていました。既に歩くのは難しく、体は通勤にも仕事にも耐えられなくなっていました。最後の業務をしに行って、翌日からは期限を決めずに休むことしました。

数日前に、以前に新規事業のプレゼン作成を手伝ったことがある仕事関係の人からメールがありました。私の体調を事業関連の嘱託医に話してみたところ、思い当たる病気があるのですぐに診せに来て欲しいとのこと。途方に暮れていたところでしたので、とても有難い話でした。
翌日に訪問することになった病院が、たまたま自宅からバスで十五分の場所にあったのも幸いしました。もう体を起こすことさえ辛くなっていましたので、もし遠ければ「ありがたいけれど、また次の機会にする」と答えていたかもしれません。その医師の勤務日は月1、2回程度しかなかったので、次が一か月後になっていたかもしません。

連絡の翌日に診察を受けた病院は、戦後間もなくの昭和三十年頃に設立された病院でした。
診てくれた医師は、その病院の嘱託医師のようでした。所属する病院は別にあるが、月の中で特定の日の午後だけ、その病院で診察を行っているとのこと。勤務医がたくさんいるようには見えない閑散とした病院なので、経営が難しい地域医療を他病院の医師が交代で支えているのかなと思いました。後で調べると、医師が週一回の所属病院の研究日に、他機関と嘱託契約を結んで診察を行うことはよくあるようです。


午後の早い時間に病院に着きました。受付から、おばあちゃんの看護師に付き添われ、診察室に向かいました。待合室で談話している数人の高齢者の他には患者はほとんど見あたらず、閑散としていました。建物は大変古く、各部屋の扉の上には昔の学校の廊下にあった部屋名の札が、突き出しています。黒く光った札に書かれている白い筆文字は、印刷された活字ではなく、塗料で手書きされたものでした。
元々外の光がほとんど入らない廊下を、節電で電球を外しているのかと思うほど暗い蛍光灯で照らしていて、廊下には患者は見当たりませんでした。

診察室に入ると、50代前半くらいの若々しい医師は、約30分かけてとても丁寧に聞き取りをしました。それから、全身のマヒの分布図を作ると言って、触診、打診を足先から胸まで行い、カルテの人体の図に書き込んでいきました。
それから、ずっと診察を見守っていたベテランのおそらく80歳を超えているであろう看護師に「ピンを」と言うと、看護師はどこからか安全ピンを持ってきて、針の先端をライターであぶって消毒しました。そのピンで全身をチクチクと刺して、痛み、痛覚の異常の分布を調べました。次に看護師に「筆」を頼み、触覚の分布を、熱いタオルで温感の分布を調べました。この作業が約一時間続きました。全身の図が出来上がると、「おそらくここだな」と言い、「思い当たる病気がある」と。

医師が疑っていたのは「脊髄硬膜動静脈瘻(ろう)」でした。脊髄の硬膜の動脈と静脈が異常な瘻孔によってつながってしまう病気です。動脈血が静脈に流れ込み、本来静脈を流れて心臓に戻る血流が滞り脊髄を圧迫し、しびれ等の症状が引き起こすものです。
感覚麻痺の分布図を作ることで、伝達が滞っている脊髄の部位を推測する作業をしていたようです。
その前に検査を受けていた総合病院で最も疑われていた病気は、膠原病系の難病「ギランバレー症候群」でしたが、これについては「髄液検査で抗体反応が出なかっただけでなく、細かい様態が違うのであり得ない」とのことでした。


「MRI画像で裏付けを取りたい。ただ、この病院には必要なMRIを撮れる機械がないので、タクシーで別のクリニックに行って撮ってきてほしい。先方には精密な撮影部位を指示するから」と言われました。そしてすぐにクリニックに電話して、疑われる病名と欲しい画像、特に脊椎の第〇番の辺りを〇度の角度で〇ミリ単位でスライスして撮って欲しいと伝えていました。
その間に先程のベテラン看護師はタクシー会社に電話をしており、玄関に出た時にはタクシーがドアを開けて待っていました。

それが先週のことでした。

翌週、見通しのない休みに入った二日目が、MRIの診断結果を聞きに行く日でした。私にとっては最後に残されていた望みでした。

診察室に入り、イスに座ると不安定なため、私はベッドに腰掛けました。
先生の診断は次のようなものでした。「残念だが必要な画像が不鮮明で断定できない。地域医療ではこれ以上の精度のMRIを撮れる病院はない。通院で検査をするよりも入院して検査をした方が良い。良い状態とは言えないのは確かで、引き延ばすと取り返しがつかないことになる。今この足で入院した方がいい」

その時には、ベテラン看護師はすでに指示される入院先をわかっており、医療機関と専門医一覧の必要なページを広げ、電話機を医師の前に置いていました。その病院のある場所は、都心の地名でした。

私は、「今すぐ入院」と言われて戸惑っていました。
これまでの別の総合病院の検査通院の時には、「このまま家に帰さないでほしい。病名をつけて入院させてくれ」と思っていましたし、今回こそは入院と言ってもらえるのではないか、と期待していました。それくらいに病名がなかなか付かないことで、気持ちが切迫していました。

しかし、今回はまずは結果を聞くくらいのつもりで、自宅から十五分の病院にバスに乗って来たのです。服装や持ち物がご近所用なのはもちろん、あまりにも突然すぎて、心の準備ができていませんでした。
というのも、私にとっては入院は幽閉です。閉所恐怖に近い感覚で、とても嫌なのです。何も持たずに手ぶらで臨めるような場所ではないのです。少なくとも、自分の精神的な自由を確保できる、気持ちを逃がせる物を持っていきたい。どうしても必要と思ったのは、ペンとノートと本と、病院外に手紙を送るためのアドレス帳でした。

それで、医師には「戸締りをして来なかったので、一度家に寄ってから行きたい」とお願いしました。「必ず行くように」と強く念を押されて、病院に着く時刻を指定されました。
後で思えば、入院前の問診をする医師の都合や、入院手続きができる時刻、病棟が患者に夕食を提供できる時刻など、数々のリミットがあったのでしょう。それを、先生が強引にねじ込んでくれたような形になっていたのが実際のところのようです。


自宅に寄って、私がかろうじて持って歩ける小さいショルダーバックに、ペン、小さいノート、読み古した薄い文庫本二冊(谷川俊太郎詩集と吉本ばななでした)、知人の住所を書いた一覧表等わずかな荷物を入れて、約束の病院に向かいました。
バス、地下鉄、タクシーを乗り継いで病院に着きました。指定された外来棟フロアの受付で名前を告げたところ、車イスが運ばれてきて座らされ、その後入院後数週間は、一人で立ち上がることは禁止されました。

医師の問診が終わり、看護助手に押されて入院病棟のベッドへ。このように、突然慌ただしく入院が決まり、私にとって初めての長い入院生活が始まりました。


後に知ったのですが、私を診察して入院につなげてくれたその医師は、入院先病棟の元部長だったとのこと。
入院してから、病棟担当医に、この日の約三時間の問診と検査の様子を話すと、とても感心していました。「最近の医師は機械の数字しか読めないが、先生は機械がなくても医者の仕事ができることを体現している。これが医術と言われるものなんだ」と。

私は、この突然現れたプロの医師に救われました。そして、その医師に私の窮状を伝えてくれたのは、かつて同じ思いで一緒に仕事をした同僚でした。


入院して一週間目、この医師は様子を見に来てくれました。カルテすべてに目を通し、治療の進捗状況に疑問を持ち、病棟の医師に細々と指示をして帰りました。
再び二週間目に来て、診断内容、治療方針を病棟医師から聞き取っていました。その後、約一時間かけて、私の疑問と今後の不安を聞いてくれて、客観的な立場で、診断内容の詳細や治療と予後の可能性を話してくれました。

直接の知り合いでもないのにここまでしてくれるのが、とても有難かったです。知人はどのように頼んでくれたのでしょうか。
入院につながるところで、私を助けてくれたのはこの二人でした。

今回は、「リカバリー」の本筋からすこし離れて、入院した日のエピソードを書きました。書いていて、人に救われていることに気づきました。そして、その「人」とは、それ以前の生活の中で、深いところでつながれていたのだと思います。

次回からは、しばらく入院中のこと書きます。
最後まで読んでいいただきありがとうございました。



文・写真:©青海 陽2023

←前の記事<⑤>へ

🌼 次回の更新は 2023年10月13日㈮です 🌼
🧸 毎週金曜日更新 🧸





いいなと思ったら応援しよう!

青海 陽
読んでいただき、ありがとうございます!☺ かつての私のように途方に暮れている難病や心筋梗塞の人の道しるべになればと、書き始めました。 始めたら、闘病記のほかにも書きたいことがたくさん生まれてきました。 「マガジン」から入ると、テーマ別に読めます(ぜんぶ無料です)🍀