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掌編小説 | 未練

 床にころがる男と女。それから、壁に背をつけうずくまる若い女。三人は俺がよく知る人間で、死んでいるわけではなさそうだ。

 どうやってここへ来たのだろう。狭い半地下の部屋だ。何もない。ただ真四角のこの部屋で、俺が過ごせる時間はわずかだろう。誰に言われたわけではないが、わかるんだ。これは現実ではないからだ。俺にとっての現実など、いまはどこにも存在しない。

「なあ、あんた」
 俺とは対角に位置する場所に寝ている大男に声をかけた。
「起きてるか。いや、起きているわけないか。あんたはいつだって寝ているんだ」
 男は壁の方を向いて横になっていたが、声をかけると、思いの外すんなりと起き上がった。
「オレがいつでも寝ていたって? 相変わらず浅はかだ。オレとお前は違う。お前が寝ているときにオレは起きる。真逆だった。それだけだ」
 そうか。絶妙にタイミングを合わせてシーソーを漕ぐように俺達はずっとすれ違っていたというのか。笑える。
「ありがとうな。あんた、とんだ体たらくだが、稼ぎだけは良かったから」
 この男は世間ではどうしようもないクズだ。だが何を間違えたか、俺たち家族には金を惜しまなかった。大嫌いだった。だけど同時に感謝もしている。
「少なくとも俺は助かったよ。あんたと一緒になったことで、母親が幸せになれたかは別として」
 男の足元で体を丸くして寝ている女を見た。母だ。
「この女はオレにとって価値がある。だから金だって使うさ。お前がオレ達の関係に何を思うのか知らねえが」
 男は、母の肩を足で押して揺らした。
 「乱暴するな。あんたらの関係に口は出さねえよ。だけど、俺にとっては見ていて気持ちのいいものじゃない」
 そうか、ととぼけた顔で男は言った。そして大きなあくびをしてから、また壁の方を向いて横になった。

「スイ」
 物のない部屋に声が響く。もう一度名前を呼んだ。壁に背をつけ、足を抱えるようにして静かにうずくまっていたスイが顔を上げた。
「スイ。両親だ」
 スイは薄目で俺を見ている。しかし、目の前に寝転がる男と派手な格好の女のことはなかなか見ようとしない。相変わらず、俺以外に心を許さないんだ。
「スイ。こっちに」
 片腕を広げて、彼女を受け入れる準備をする。スイはゆっくりと近寄ってきて、腕の中に収まった。
「冷えないか」
 スイの裸足をさすってやる。冷たくなった足先と同じように冷たいスイの手が俺の手に重ねられた。

「冷やすなよ。体を大切にするんだ」
 説得力がないとわかっていてもそう言ってしまう。スイは頷いた。
「今更だけど、ありがとう」
 喉の奥が重く、言葉に詰まった。ありがとうだけでは足りない。今言わなければまた後悔するとわかっているのに、スイに伝えたいことはやっぱり口に出せなかった。
「わたし一人では、無理だと思う」
 ずっと黙っていたスイが、小さな声で言った。
「この二人を頼ってほしい。きっと力になってくれるから」
 スイに安心してほしくて無責任なことを言った。不安そうなスイを抱き寄せた。しっかりと抱きしめているのに、自分の体はわずかな違和感を感じる。

 この部屋に外とつながる扉はない。あるのは少し高いところについた窓だ。残された時間が気になった。
「母さん、時間がないんだ。話をしたい」
 何年ぶりだろう。未だ丸くなった姿勢を崩さない母に声をかけた。返事はない。だけど母は最初からずっと起きていて、じっとこの状況に耐えていたことを知っている。
「スイだよ。妊娠してる。どうか力になってほしい」
 声が震えた。好き勝手に生きて、挙げ句、こんな形でスイとやがて生まれるであろう新しい命を母に託すことが情けなかった。
「親父」
 すこし躊躇ったが最初で最後だと思い、そう呼んだ。養父はもう何も言わなかった。
「その窓を開けて。母とスイをそこから出してほしい」
 父は指示通り、窓を開けた。
 スイを父のもとに歩かせた。父はスイの手を取ると、ゆっくりと抱き上げて窓の外に出した。次に父は母のもとに行き、床に膝をつくと、母を抱き起こした。息子を見ようとしない母に、意地を張るな、とぼそっと呟いている。そう言われると悔しかったのか、差し出された手を払い除けた母は自力で立ち上がった。
 窓に近づくと、母は大人しく父に抱き上げられた。外に出た母の後ろ姿を見て、こみ上げるものを押さえきれなくなった。泣きじゃくりながら、どうにか声を絞り出した。
「ありがとう……」
 尻すぼみになり、母に伝わった自信はなかった。だけど母は振り返った。そして言った。
「わたしが生きているうちに生まれ変わりなさい。待ってるから」
 そして窓から離れ、見えなくなった。

 最後に残った父のために、涙を拭い床に四つ這いになる。
「ダサい姿だろ。でもこうするしかない。俺を踏み台にして外に出てくれ」
 父は何も言わず、背中に足を乗せた。予想外の重みにじっと耐えた。父の大きな体が、小さな窓全体を覆った。その一瞬、部屋の中は真っ暗になった。暗闇は怖かった。体が自然と震えていた。死にたくなかった。いまさら、何を言っても遅いのに。
 




[完]


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