ショートストーリー | 膿
かつて記憶の裏側に追いやった切り傷から、今になって膿が溢れてきた。
透明な液が流れ出して、ようやく気づく。
化膿した傷口。
見たくない傷には透明のラップを巻いて呼吸すらさせない。だけどそれが、自分の一部だということを忘れたくないから、うっすら色が見える程度に温存する。
ラップの上から傷口を撫でる。
愛でているのではない。
そこにまだ在るのかどうか、知ろうとする。
私の指が触れると、誰かの口みたいに開いたそれは、悲鳴を上げて黄色い膿を吐いた。
私は、人差し指を唇に当てて、「静かに」と傷口に言った。
傷口がなにかを発することは許せない。
手放すことも治癒することも許さない。
怒りは燃料
寂しさは賢さの源
赦すこと、赦されることは、ただの通過点
遠い記憶。
走り去る、父親の緑のバン。
二段ベッド。
いつの間にかキッチンに隠れていたプレーリードッグ。
マイナス30度の凍える寒さ。
ちぎれそうな耳。
通学路の牛舎の匂い。
記憶はときに信じられるもので、ときに恐ろしく嘘をつく。
綺麗な傷口だから放置したのに。
綺麗に切れた傷口は、放っておけば痕跡を残さず塞がるものだと思っていた。
ラップの下で、傷口が嗤う。
“すべては記憶のいたずらさ。
傷口を舐めて癒すふり”
傷口は、吐き出した黄色い膿を舐めている。
私を憐れんでいるのか。
透明な液体は涙のように流れ続けて。
[完]