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映画感想「ナミビアの砂漠」 & 「市子」

→つづき。

今回こそは「ナミビアの砂漠」の感想を書きたい。



と、その前に。

私は「ナミビアの砂漠」を観る前夜、「市子」を観ていた。このことから語らなければならない。
なぜならこの映画を見た影響は私の中でわりと重要だから。

市子(杉咲 花)は、恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、突然失踪。
長谷川が行方を追い、これまで彼女と関わりがあった人々から証言を得ていくと、
切なくも衝撃的な事実が次々と浮かび上がる…。
市子の人生を狂わせた悲しき宿命。
名前を変え、人を欺き、社会から逃れるように生きてきた。
なぜ、彼女はこのような人生を歩まなければならなかったのか ——。

公式サイトより引用。


壮絶な過去を持つ市子。

家庭環境は子どもの立場ではどうにもならず、市子は劣悪な状況下で苦労して生きてきた。そしてようやく幸せを掴みかける。

掴みかけて、あと一歩のところで幸せになれない。ずっと過去に振り回されている。

逃れられないものを背負ったまま失踪した市子を、恋人と警察が追う。

市子の過去を辿る中で、市子と関わった知人らの証言によってその人物像が浮かび上がる。そうして徐々に過去の出来事も鮮明になっていく。

(ざっくりあらすじ)

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「市子」という映画はわかりやすい。

物語の結末としては、はっきりさせないまま終わっている。だけど、ちゃんと主張がある。
その主張というのは「市子のことを知ったなら、彼女のこと、彼女の置かれた状況をあなた自身が考えてみて」というもの。

こんな状況下で生きている人がいる。
生きようとしている。
生きることを諦めず
ときに夢を持ち
誰かに愛されて
もう一度愛を信じようとしている。
こういう人が
あなたが知らないだけで身近にいる。
見せないだけ。
隠してるだけ。
普通であるようにみせながら
苦しみを隠して生きている。

だから、考えてみてほしい。


市子という作品からはこのようなメッセージ、もっと言えば「」を感じた。

一つ一つのエピソードに対して
あなたならどうした?  何ができた?
と訴えてくる。
そう言う意味で重い。

この映画に対して人が書いた感想を読むと
「市子を抱きしめたくなる」とある。

私にもこの気持ちがわかる。
だって市子はずっと頑張っているから。

だけど、抱きしめても抱きしめても変わらない現実があって、とうとう市子は姿を消したのだ。

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「市子」を観た翌日、私は「ナミビアの砂漠」を観た。

世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。
優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?

「ナミビアの砂漠」公式より引用。


この映画に私が勝手に期待したのは、たぶん「今っぽさ」だ。

私の世代よりもだいぶ下の10代後半から20代前半くらいの人たちが親しむ文化とその思想的なもの。それを知りたいと思った。

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映画の冒頭は主人公のカナが歩いているシーンから始まる。ロングショットで映し出されたその街は……「町田」。

私の大好きな町田(街だ)。
LUNASEA発祥の町田(街だ)。
LUNASEAが今の五人で初めてライブを行った、伝説のライブハウスがある町田(街だ)!


冒頭から食い入るように画面を見つめた。
神奈川に住んでいた頃はしょっちゅう町田へ行ったものだ。

あとから監督のインタビューで知ったが、カナのように若い女の子が、遊ぶために歌舞伎町へ通いやすく、実際に住んでいそうな郊外の場所というところで(聖地)町田が選ばれたのだそう。

その町田で、カナは女友達と待ち合わせしているカフェに入る。
そこで繰り広げられる会話や雰囲気がとにかくリアルだった。
同級生の自殺について話す二人の声のトーンだったり、関心の向く方向だったり、リアクションだったり。

私はよく一人でカフェにいるので、そのときに隣や前後から聞こえて来る若い女の子たちの会話そのもののように感じた。
そこに強烈な既視感を覚える。

実は私がこの映画に終始感じたものは「既視感」だった。

お酒を飲んで弾けたときのカナの有り様。
冷蔵庫からハムを取り出してその場で貪るだらしない姿。
彼氏にぶち切れ、暴力を振るう。
半開きの目。
偉そうな面。
苦手意識のある大人に対して見せる余所行きの態度。

その他もろもろのことに既視感があった。

自分の事じゃないのに、まるで過去に経験してきたみたいな。
「わかる……」というよりは「知ってる……」に近い感覚。

優しい彼氏のことがつまらなくなって、刺激的だったもう一人の男に乗り換えたものの、面白くない一面を知る。
荒れ狂う。
好き勝手やっていたはずなのに、なんか苦しい。
自分が壊れているのがわかる。
無気力。
なりたい「誰か」もいない。
ずっとこの先も「私は私」なんだってことをわかってる。

家で彼氏と激しい喧嘩をしようが、そんな自分を隠さない。
自分の居場所になると思ってた場所さえ居心地が悪い。
なんか違う。
全部、思ってたものと違う。

あー病気なんだわ、自分。




と、勝手にカナになり切ってぶつぶつ述べてみたけれど、別にこういう話ではない。
当たらずしも遠からずというところではあると思うけれど。


(ここからはほぼ独り言)

私がこんなにごちゃごちゃと考えているのは、たぶん「市子」を観たからだ。
「ナミビアの砂漠」についても、なにかを必死に考えなければいけないと思ってしまっているのだ。
だけど今述べていることは全て後付けであって、映画を見た直後の私は正直「……ん?」だった。
「めちゃくちゃリアル。リアルすぎる。こういう人たち、いるよね。こういう葛藤、あるよね。親子ほど歳離れてるけど、案外私もこの子たちも似たような感覚なんじゃん」
そんな感想を持った。

もちろん、監督のインタビューを読んでみるとなるほどな、ということが多い。
伝えたいことは根底にある。
たとえばそれは「混沌として怠惰でいることは別におかしいことじゃない」とか。
だけど、その場その場でキャストから、スタッフからアイデアを取り入れて作ったシーンも多かったようで、それゆえ新鮮さ、「今っぽい」現実味が強烈だった。

この映画も「市子」同様、その人が抱えている他人には見えないしんどさってあるよね、というテーマがあると思う。
だけど「市子」と違うのは、説明されるのではなく、自分で「観察する」映画なのだ。

見る人が見ればカナは魅力的だろう。
私にとってはそのキャラクターはそうでもなかった。
見ているとしんどい方のため息が出る。
ことばが少ないところなど、きっとカナはぐるぐる思考に陥りやすく苦しいのかもなあとか考えてしまう。


私は私が大嫌いで、大好き──いじわるで、嘘つきで、暴力的。そんな彼女に誰もが夢中になる!

↑これは映画のコピーだけど、これが私にはあまりしっくりこない。



だけど、カナのあの目、あの眼差しは良かった。
終始目が座っているイメージがあるけれど、ちゃんと苦しさ、悲しみを持っている。


この眼差しが、年齢を重ねて、なにかがきっかけで、だんだんぱっちりに変わったりするんだよね、とか色々思う。
もしくは一歩間違えば永久に閉じたままになる想像もできる。


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この映画は「距離感」も重要なテーマとなっている。
身近な人には粗暴な振る舞いをするカナが、カウンセラーや隣の部屋の女性の言うことには聞く耳を持つ。
近くの人を大切に出来ず、自分のこともよくわからないのに、ナミビアの砂漠のライブ配信には心を寄せて癒されていたりする。
そんな「距離感」の不思議。


あとは、この映画の登場人物と自分がどんな距離感にあるか、さらに客観視して考えてみるのも面白い。

カナのキャラクターを好きになれないのは自分と近いからなのか。
カナに惹かれてしまうのは自分に無いものを持っているからなのか、など。

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最後に、この映画の着地点はとても良いと思った。
とても良いからここには書かない。
ふっと力が抜けて、この先に小さな変化が起きるような気がする。そんなラストだった。



(ここからはさらに独り言)

感想として全くまとまらなかった。
だけどたぶんこれで正解。

わかった気になって纏めようもんなら、カナに罵倒されて蹴り飛ばされる。

もう一回観たら印象が変わりそうな予感。
今更だけど市子のくだりはそんなに重要ではなかったかもしれない。

あと、この映画はセックスのシーン(無駄な肌見せ)がありそうでなかったところがいいなと思ったけど、彼氏との闘争シーンはある意味、セックスのシーンと同じような役割に感じた。暴力を肯定しないけれど、二人にとって密で必須なコミュニケーションの一つとして。このコミュニケーションの取り方は間違っていると、本人たちも知っているわけだけど。

あと、鼻ピアス可愛い。


#映画感想
#ナミビアの砂漠
#市子














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青豆ノノ
チップとデールの違いを知りません。