掌編小説|かつての男|青ブラ文学部
いや、まさか。
こんなものであいつを思い出すとは。
老いぼれの記憶の引き出しなんぞ、鍵がかかったように使い物にならないと思っていたのに、こんなにも鮮明に思い出されるなんて。
正直、戸惑っている。
「敏和さん、ここおいときますよ」
妻が水筒のお茶を持参したカップに注ぎ、木製のテーブルの上に置いた。
「ああ、ありがとう」
私はそう言いながらも暫くはその奇妙な手すりを眺めて立ち尽くした。
近くの梢に鳥たちが集まり、賑やかに囀っている。
肌が白く、まるで女のような体つきだった。あばら骨が浮き出て、哀れなくらいやせ細っていたんだ。それなのに。
なぜだか乳首だけは異様な存在感を放っていた。
「〝まな板に干しぶどう〟なんてもんじゃない」
「はあ?」
妻が上目遣いに私を見ながらお茶をすする。
「〝まな板にそら豆〟……いや、違うな」
「どうぞお座りになって」
妻は黒ずんだベンチをぺたぺたと手の平で叩いた。
「座ったところで猫舌なんだ。そんな湯気の立つ茶を飲んだら火傷するさ。それより、例のあいつだよ。なんだってあんなにも特別だったんだ。あれはまるで……ああ、思い出せない。言葉が出てこないんだ」
あれを一言で表したい。いや、当時は的確に表せていたはずだった。
私が〝まな板に○○〟と表現したことに、あいつは華奢な体を折り曲げて笑っていたんだから。
綺麗な歯並びをした男だった。
「もう、とっくに冷めてますよ。ここで一休みしないと、途中でくたびれますから」
呆れているのか、私の顔も見ずにそう言って、妻はがさごそと音を立てながらバッグの中を掻き回している。
そうして取り出したのは昔懐かしい飴玉だった。
「黒飴……」
「ええ。召し上がります?」
「黒飴!!」
「……ええ。だから、食べますか、と聞いているんです」
「そうだ!〝まな板に黒飴〟だよ!」
「はあ?」
妻の片方の頬にはくっきりと黒飴の形が浮かび上がっている。丸くて、立体的な厚みがある。あいつの乳首だ。
私は朧気な記憶を辿りながら、執拗にその突起を撫でた。
鮮明に思い出される一夜の光景。あの黒飴をひとひねり、ふたひねり……。
「……ああ!!!」
私の悲鳴を聞いた妻が小さく叫んで耳を塞いだ。
「あなた! どうなさったの! 大丈夫ですか。こんなに震えて……可哀想に! また戦時中の記憶が蘇ったのね。ええ、ええ、大丈夫です。もう、大丈夫ですよ」
「大丈夫なものか!」
震える手で妻の体を押しやると、突起を見つめたまま私は涙を流した。
「今頃どうしているだろう」
「ご自分を責めてはいけません」
「ほんの出来心だった……」
戦時下では仕方の無いことでしょうと言いながら妻が私の背を撫でる。
仕方の無いことなわけあるか。ただの興味と私の変態性がそうしたんだ。
「四ひねりした時だ。ポロリと落ちたんだよ。黒飴が」
「まあ」
妻が息を飲んだ。そして私の顔を覗き込んで訊く。
「なんのはなしですか」
「遠い昔の話だよ」
私は立ち去る前にもう一度だけ、突起の感触を手のひらに覚えさせた。
写真を見て創作するこちらの企画に参加します。
山根さん、久々に参加させていただきます。よろしくお願いします°・*:.。.☆
(お借りした画像はスクショの上で加工をしてあります)