短編小説 | いつまでもあなたを | カバー小説
一冊の本を埋めた。誰からの便りも途絶え、使われなくなった、古びたポストの横だ。
365日書き続け、真っ白だった本のページが全て私の字で埋め尽くされた今日、一冊の本を埋めるには大きすぎるくらいの穴を掘って、私はそこに、本を埋めたのだ。
本を埋めた日から、私は毎日水やりをした。
本であろうが、なにであろうが、土に埋めたものには水をやる。そうすることは、私の気を紛らわせるから。
「もしかして、本当に埋めたの?」
「ええ、まあ」
余計な口出しを好む、隣に住む年配の女に声をかけられ、目も合わさずに返事をした。
「これであなたの気が済むなら、ね」
そう言った後、女が小さく息を吐いた音は、いつまでも私の耳の奥に残った。
本を埋めた場所から芽がでたときには、正直驚いた。まさかこんなことが有り得るだなんて。
だけど、これはきっと、娘から私への贈り物なのだろう。娘に先立たれた私へ、天国の娘から贈られた愛がかたちとなったのだ。そう思うようになり、それからも毎日、本を埋めた場所にたっぷりと水を与えた。
日に日に成長し蔦を伸ばし始めたそれは、いつしか私のこころの拠り所となった。
娘の形見の蔦を伸ばすことに執着している私に、近所の人間は冷ややかな視線を向けていた。娘がいた頃は、看病に付きっきりな私に同情を寄せ、労ってくれた身近にいた人たちは、いつしか離れ、それどころか私を変わり者扱いするようになった。
しかし、本を埋めてから一年が経ち、ついに蔦のてっぺんが空高く伸びて見えなくなる頃には、なにかおもしろいことを期待するように、人々は再び私の周りに集まるようになった。
私は、この蔦を登って行きさえすれば、きっと娘に会えると信じていた。
そんなことは無理なことだと、頭ごなしに否定する、賢くて良心的な人々や、宗教家のことばの一切を聞かなかった。
孤独な私は、娘への想いだけでここまできたのだ。
いよいよ蔦を登っていく日の朝、私は懐かしいポシェットを探し出し、腰につけた。幼い頃から病弱だった娘のために、いつでも持ち歩いていた、救急グッズの入ったポシェットだ。娘と選んだ小花柄のポシェットは、使いこまれていて黒ずんでいたが、私は、娘が亡くなった後もこれを手放すことが出来なかった。
人々に見守られながら、私は、頑丈な蔦が互いに絡み合ってできた隙間に、つま先を差し込むようにしながら、少しずつ上を目指して登っていった。
一歩ずつ慎重に登りながら、私は娘と過ごした日々を思い出していた。
思えば、娘はこの世に誕生してからというもの、体のあちこちに疾患を抱えていて、ほとんどは病院やベッドの上で過ごしていた。
私は毎日看病し続け、祈りを捧げて娘を励ました。
学校にいけなくなった娘に、簡単な勉強も教えてやったものだ。だけど、そんな時間も、私にとってはこの上なく幸せな時間だった。
私は、そんなことを思い出しながら、休まず上を目指して登った。
登っていくたび、娘に会えるかもしれない期待から、鼓動は高鳴り、涙が溢れた。
ひたすら蔦を登っていく私に対し、しばらくは黙って奇異な視線を送っていた近所に住む者たちも、次第に声をあげるようになった。
「がんばれ」
「会えますように」
「気をつけて」
そんな声を耳にすると嬉しくて、私は何度でも涙を流した。
どれだけ登り続けただろう。息切れがして、胸が苦しい。
自分の胸が嫌な音を立てるのを聞いて、昔娘が、夜間に病院へ運ばれたときのことを思い出した。
「あのときは辛かったね、苦しかったね。だけど、よく頑張ったね。毎日必死に看病して、ついに祈りが届いたのよね。まるで奇跡のようだった」
娘との思い出は、苦しみと奇跡が交互にやってくるものばかりだった。それは言い換えれば、母と娘、二人で掴みとった幸せな思い出なのだ。
それなのに。
最期はあんなにもあっけなく逝ってしまうなんて。
誤って漂白剤を飲んでしまった娘の命は、いともあっさりと悪魔に奪われてしまった。
「あの日、あなたにしてやれることはすべて試した。だけど、だめだったのよ……」
娘がいなくなってからの私は、毎日泣いていた。眠ることも食べることも出来ず、たくさんの薬を飲んだ。家には娘のために揃えていた薬が、山程残っていた。
そんな私を見かねて、ある人が私に一冊の本を授けたのだ。
私は手渡されたその真っ白な本に、娘への想いを綴っていった。
書き記したことのほとんどは、娘が天国で体調を崩したときの対処法のようなものだった。
頭が痛くなったときにはこれを飲みなさい。
おなかが痛くなったらまずは温めて、あの薬を飲むのよ。
そんなことばかり。だけど、病弱な娘には必要なことなのだから。
「ねえ、アイちゃん。そこにいるの?」
そろそろ地上がぼやけて見えなくなった頃、私は大きな声で娘を呼んだ。しかし返事はなかった。それでも諦めずに耳をすますと、誰かが小さく咳をしたように感じた。
「アイ? アイなの?いるのね?」
私は辺りを見回した。すると、今まで見えていなかったことが不思議なくらい近くに、蔦に絡まっている娘を見つけた。
「なんだ、アイちゃん! そんなところに……」
私は興奮して手を伸ばした。もう少しで娘に届くというところだった。
ところが、不意にどこからか伸びてきた手に、阻まれてしまった。
「いたっ、いたい!!」
突然、ものすごい力で手首を掴まれ、驚いた私が、手の主の方に顔を向けると、それはどこか懐かしい表情をした女だった。
真一文字に結んだ口と、眉根を寄せて疑わしそうに私を見ているこの目には見覚えがある。
ああ、あのときの。私は思い出した。
「はなして」
私は、過去に娘を担当した看護師の女に言った。
しかし女は厳しい表情を崩さずに首を振った。
「はなせ!!」
私は暴れながら大声を出した。それでも看護師の力が緩むことはなかった。
「なんであんたがここにいるんだ!」
看護師に怒鳴って、はたと我に返った。そうか、この女も死んでいるのだと思い至った。同時に、女が病院の屋上で私に見せた、死に際の恐怖に引きつった顔を、ぼんやりと思い出した。
「もう一度死なせてやろうか」
私は自分のこめかみが大きく脈打っているのを感じた。私は、女に手首を掴まれたまま、大きく体を揺さぶるが、女はそれでも私の手首を離そうとしない。私は女を何度も蹴った。呼吸が大きく乱れて、首の血管が今にも破裂しそうだった。そんな中で、かすかに娘の泣き声が聞こえた。私は娘に向けて叫んだ。
「大丈夫、待っててね!…すぐ、おくすり、あげるから!!」
私は焦っていた。
早く娘に薬を飲ませなければ。
早く娘をベッドで安静にさせなければ。
私が、早く娘を、介抱しなければ。
私は看護師の女を揺さぶり、蹴飛ばしながら、なるべく娘には優しい言葉をかけようと思った。しかし、見ると娘は、何度も何度も首を振っている。涙を流し、悲しそうな目で私を見つめながら、首を振っているのだ。
そして、小さな声でつぶやいていた。
「びょうき。びょうきだよ。おかあさんは、びょうきなんだよ」
「何言っているの、アイちゃん。そんなわけないでしょう?」
娘は、なおも泣きながら首をふる。そして娘は、私の隣にいる看護師を見ていた。
娘の視線を追って私も看護師を見ると、厳しい顔で、娘に頷いている。
「おまえ!娘に何を言ったんだ!!」
このとき私は、過去に、この看護師が私に言った言葉を思い出した。
「私はあなたを、代理ミュンヒハウゼン症候群だと疑っています。どうか、あなた自身が専門機関にかかってください」
私は激昂し、それまで蔦を掴んでいた手を離して、看護師に飛びかかろうとした。しかし、蔦に絡めていた足が思うように抜けずに大きくバランスを崩した。それを見て、看護師は、それまで掴んでいた私の手首を離した。
その瞬間から、私には、見えているすべてがスローモーションのように感じられた。
落ちていく私を、悲しそうに見つめる娘と目が合った。
娘に触れようと伸ばした手の先と、娘との距離が開いていく。
毎日、いつか娘に届くようにと、上へ上へと伸ばしつづけた蔦の成長を、逆再生していくように、私は下へ落ちていった。
娘のように可愛がって育てた蔦の、その先端を見ること無く、私だけが遠ざかっていくのだった。
落ちていきながら、私は、本当に娘に伝えたかったことばを思い出した。
娘を亡くしてからというもの
それを言うために私は
こんなにも一生懸命に蔦を育ててきたのに。
だれか お願い
もう一度 娘に
せめて一言だけ
大切なことを……。
[完]