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掌編小説|ついたち

 足音が近づく。手にしていたスマートフォンは布団の中に隠し、枕元にあった漫画を開いた。
 予想通り、足音は私の部屋の前で止まり、次にはドアをノックされた。
「こん、ばん、み」
 気に入っているタレントの挨拶を真似て部屋へ入ってきた母は、手にコミック本を数冊抱えている。
「どうしたの、それ」
 触れないのも気まずい。だから質問を投げた。
「もうさ、我慢できなくて大人買いよ。知ってるよね?〝あたいらのピンチョス〟」
「聞いた事あるような、ないような」
 仰向けから体勢を変えて横向きになり、母に背を向けた。
「ね、今日さ、私もここで読んでいい?」
 なんで? と訊くのは面倒くさい。だから少し壁に寄って、母が横になれる空間を作った。
「ありがと。あんたも読んでいいからね」と言いながらマットレスを大きく揺らす。久しぶりに母が私のすぐ横にやってきた。

 母がきてから三十分ほど経ったところで時計を見ると、午前一時を示していた。私たちはずっと無言で背中を合わせている。母は明日も仕事のはずなのに、寝なくて大丈夫なのだろうか。なんどもあくびが聞こえるのにパラパラと本のページをめくる音は止まない。
「もう電気消す?」と訊いた。
「あんたがまだ起きてたいならいいよー。つけてても」
「じゃあもう少し……」
 本当は私だって漫画に集中出来ている訳ではない。だけど、眠れないのだから仕方ない。それはいつもの事で、もう気にしてはいない。眠れないことを気にすることほど苦しいことはない。それならいつかスイッチが勝手に切れるまで起きている方がよっぽどましだ。
 母が寝息を立て始めてから、読んでいた漫画をスマートフォンに変えた。だけど、それを握っていられなくなるまでの記憶は残っていない。勝手にスイッチが切れて眠りについたのは、たぶん、三日ぶりだ。
 結局、明け方に電気を消したのは母だった。

 七時のアラームで目が覚めて、薄暗い部屋の壁を見つめていたら吐き気に襲われた。嘔吐えづく私の背中を母は黙ってさすってくれた。
 落ち着いたところで体を起こすと、母がふふっと笑った。
「夢に見ちゃったよ。ピンチョスのアレ、可笑しかったな」
 なにそれ、と一言だけ言ってベッドから足を降ろした。ひんやりとした床に両足をつけると僅かに膝が震えた。
 母も起き上がり、共にベッドに腰掛ける格好になった。
「今日さ、新装開店のコンビニがセールやるのよね。どうせだから行こうかなと思って」
 あくびをしながらそんなことを言う。母は休みなんだ、今日。

 立ち上がり、洗面所へ向かった。酷いくまが出来ていた。目元を覆う長い前髪で隠せるけれど、少しファンデーションを塗った方がいい。決して誰にも気づかれない程度に。

 キッチンへ入ると、母が何か用意してくれそうな気配があったので後ろから声をかけた。
「私はいらないからね」
「……あ、うん。これ自分の分」
 母は振り向いて笑った。大きな卵焼きだった。
「あ、そこにブラウスかけてあるよ。一応アイロンしといた」
「ありがと」
 リビングのカーテンレールにかけられた白いブラウスを見て再び吐き気に襲われた。胃痛が始まりそうで、もう一度部屋で休もうかと思った。
「ね、今日って給食はないよね?」
 すぐ後ろで母の声がした。
「ないと思うよ。というか、ない」
 私は全身にかいた汗を着ているTシャツに押し付けた。
「ならさ、今日せっかく一日ついたちだから映画行かない? 学校帰り、そのまま行っちゃおうよ」
「え……制服で行くのやだよ」
「そ? そっか。ま、とりあえず外でランチしよう。私休みだし。ね? あんたが学校終わるの、近くで待ってるから」
 母が話し終わるのを待たずにトイレに向かった。

 暗い便器の中を睨むようにして何度も吐いた。
 胃の中に吐き出すものはない。込み上げる胃液が喉の内側を焼く。
 蓋をおろし、便器に持たれるようにして床に座り込んだ。吐いた時に流れた涙と鼻水で顔は酷く汚れている。せっかく塗ったファンデーションも落ちたかもしれない。
 涙を拭いもせず目を閉じて、息を整えながらこの一ヶ月何度もやっていたように頭の中でシミュレーションをする。

 制服を着て家を出る。動物病院まで歩いて横断歩道を渡る。ひたすら真っ直ぐ歩いたら、新しくオープンするセブンイレブンの角を曲がる。
 たくさんの学生が校門をくぐる。何人かは顔見知りで、それ以外は知らない人。みんな同じ学校の生徒だ。
 挨拶を交わすことはないだろうけど、万が一話しかけられたら「おはよう」、それだけ言えたらいい。
 頑張る必要は無い。笑顔を出せたらいい、だけど、そこまでは誰も期待していない。

 固く目を閉じ、便器の横にしゃがんだままの私は、イメージの中で確かに学校へ行った。
 トイレの中に、私が取り付けた小さな壁掛け時計がある。時刻を確認して、あと五分だけここにいることを自分に許した。

 しばらくそのままでいると、ドアを隔てて母から声がかかった。
「なんかさ、朝のうちが涼しそうだから、例のコンビニ行こうかなって。今からちゃちゃっと準備するから、途中まで一緒に行こうよ」
 返事はせず、洟をすする音だけ聞かせた。去っていく足音が遠のいたのを確認して中から這い出した。暗い廊下からリビングを覗く。窓から見える外の様子は少しだけ日が差して明るくなっている。

 一ヶ月ぶりに着る制服は重かった。体に全く馴染まず、着心地の悪さだけで汗をかく。
「ハンカチ持ったー?」
 そう言いながら、母は見慣れない夏用パーカーを羽織って通り過ぎた。
 忙しなく動き回る母をぼんやり眺めていると、ふいに目が合い「変?」と訊いてきた。
「どこで買ったの、その服」
「これ? ジャスティス」
「あんなとこまで行ったの」
 そうよ、と言いながら姿見で全身をチェックしている。
「最近見直したのよ。ジャスティスって、安いだけじゃないなって」
「でも電車賃かかるじゃん」
「それだったって安いわよ。それに、案外いい物があるの。それに気づいたのよ。人とかぶらないし、フロアが広くて試着室も混んでないし、ゆっくり選べる」
「楽しそうだね」

 母が楽しそうに見えた。母は私の目をじっと見つめた。
「楽しかったよ。今度一緒に行ってみる? ジャスティスも最近は若い子向けの服があるのよ」
 優しい声だった。

 玄関で靴を履き、いざ歩こうとすると足が鉛のように重くなっていることに気づいた。
 母が玄関のドアを開けて言う。
「晴れたね、良かった」
 私は立ったままで動けないことをどう伝えようか悩んだ。
 俯き、自分の両足を見つめている私に母が手を貸す。
「一歩だけ、こっちへおいで。私の方に」
 私は母に手を引かれて重たい足を引きずる。

 あのね、今ね、急に足が重くなって。嘘じゃないよ。何か靴の中に重りを仕込まれたみたいに。本当なの。すごく重い。こんなんで、私、学校行けるのかな。

 動かない足がこわい。あっという間に肩も背中も強ばって、手の先端から冷えていく。
 母が私の手をしっかりと握り直した。無言で、ゆっくり時間をかけて、私を玄関の外に導く。
「さてと。さっき調べたんだけど、いいの見つけたのよ。映画。あんたが観たがってたやつ。ちょうどいい時間にやってるから、あれ観よう」
「あれって?」
「ルックフォワード」
「え、観たいって言ったかな」
 言ってないか、と母が笑う。そんな話をしながら、気がつくとエレベーターに乗ってマンションのエントランスを抜けた。

 外界の熱で、私を覆っていた薄い皮膜があっという間に溶けた。音がする。夏の終わりの、なんとも言えない世界の音。鮮明で鋭い幾千もの音は何重にも重なって私を襲う。体に容赦なく轟く新学期の静かな地鳴り。
 日常という、人々の呼吸と熱でぐちゃぐちゃになった空気に触れ、じりじりと焼かれる。呼吸がざらつく。

 こわくて。それでも、母の手を離した。

 母は前を向いたまま、私には何の話だか分からない世の中の話をする。
 どこにあったの? そんな話。
 どこで見つけたの? そんな話。
 私はまるで、お母さんとは別の世界に生きているみたいだよ。

 動物病院前の横断歩道を渡ったところで、母から数歩離れた。さすがの母も、私と距離ができると一人語りをやめた。
 真っ直ぐ、歩く。
 私の目に映るものは、シミュレーションしていた景色とはだいぶ違っていた。私が描いた白を基調とした世界ではなく、描ききれなかったものたちの鮮やかな色の大群が高速で目の前を横切る。
 何人か、同じ制服を着ている生徒が通り過ぎた。私は、下を向いてただ真っ直ぐ歩く。

 目の前にコンビニが迫ってきた時、母がそっと近づいてきて、一度だけ私の背に触れた。
「このコンビニの前に帰りもいるから。絶対ここにいるから。絶対、一人にしないから」

 そう言って、母だけは足を止めた。
 私は、感情を無くし同じリズムで動き続ける自分の重たい両足を不思議な気持ちで見つめていた。

 乾ききった口で浅く呼吸をしながら、最後の角を曲がる。前髪の隙間から、もう一度だけ、母の姿を見た。
 




 了


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