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掌編小説|透明ドロップ|シロクマ文芸部

 夏は夜のうちに済ませたいことが多いのだと、本田ほんだは申し訳無さそうな、だけど見ようによっては嬉しそうな表情で言った。
「家に帰ってやることって? 金曜の夜だっていうのに。あんた、もしかしてダブルワークでもしてるの? それとも、私達といるのが面倒なだけ?」
 一件目の居酒屋で酔いが回ったマサエが本田に絡んでいる。
「僕は独り身なもので。週末に一気に片付けたいことが多いんですよ。また誘ってください」
 そう言った本田に、本田より三つ年上のマサエがあかんべーをした。私はぎょっとしたが、本田は笑っている。
 それでは、と去ろうとした本田は、思い出したように再び口を開いた。
「お二人も、早くご帰宅くださいね。最近は物騒ですから」
 私は「そうですね、ありがとうございます」と言って本田の後ろ姿を見送った。マサエは「変なやつ」と悪態をついた。
「風俗にでも行くんでしょ、どうせ」
 そんな、と言いながら、実のところ私も気になっていた。
「なんかあいつ、スキップしてない?」
 マサエが極限まで目を細めて顎を突き出し遠ざかる本田を見つめている。私はそんなマサエの背に隠れて、残りひと粒になった「透明ドロップ」を口に含んだ。マサエに見つからないようにガリガリと噛み砕いて急いで飲み込む。むせそうになったが堪えて本田のあとを追った。背後ではマサエが私を探す声がする。
「あれっ。羽鳥はとり? え! なんで? どこー? はとり〜〜!」

 透明人間になった私はしばらく走り続け、ようやく本田に追いついた。鼻歌を歌う本田は、彼が住む駅に直通の電車に乗った。やっぱり帰るだけなのだろうかと少し残念な気持ちになりつつも、どうせ同じ駅なのだからと私も電車に乗った。
 金曜の帰宅電車は混んでいた。本田にピッタリと体を寄せて向かい合うと、ビールを二杯飲んだ本田の息が顔を直撃して、思わず吐き気を催した。
 こんな思いをしてまで自分は何をしているんだと思ったが、好奇心を止められなかった。実は少し前から、本田に関してある噂が流れていたのだ。
〝営業先のパート従業員と不倫をしている〟
 独身男の不倫、まして自分と直接関係のない女性とデキている噂に私が興味をもったのは大した理由ではない。そのお相手が、天海祐希似のものすごい美人だという話だからだ。
〝あの本田が美人妻と不倫?〟
 いやいや、だめでしょ、ないでしょ、嘘でしょう?! という噂で、一時は持ち切りだった。最近は下火になったとはいえ、誰も真相を確かめたものがいないのだから、未だもやもやしたものが残っていた。
 そんなことを考えているうち、電車は目的のホームに着いた。駅を出ると、本田はそのまま駅隣接のスーパーに入った。
 慣れた手つきでかごを持ち、決まったルートがあるのか、本田は立ち止まることなく、青果コーナーを抜け、精肉コーナーへと移り、乳製品のコーナーでは目にも止まらぬ速さでチーズを数種類かごに詰めた。
 セルフレジに並び、会計を済ませる本田の肩越しにその動作を見守ると、感動してしまうくらいスムーズだった。
 その後、駅の駐輪場に自転車を取りにいった本田は、ここでスーツのジャケットを脱いだ。ジャケットを脱ぐと、ぴったりしたタイトなシャツの下に、思ったより引き締まった体の線を感じた。
「四十代前半の独身男性って、自分にお金かけてるんだろうな」そんなことを思った。
 そうこうしているうちにひらりとサドルに跨った本田が自転車を走らせようとしたので、私は慌てて荷台に飛び乗り、本田にしがみついた。
 密着した本田の背中からかすかに加齢臭を感じて、私は無意識に口呼吸をする。目の前には本田のうなじがあって、そのクルッと巻いた毛先の乾燥具合に思わず目を閉じた。
 はあはあと息を荒くして坂道を二人乗りの自転車で駆け上がる本田の背中で、私も「はあはあ」と口呼吸をしていた。
〝全く好みじゃない〟本田に近づけば近づいた分だけそんなことを思った。それでも、この冒険は楽しかった。

 本田のマンションに到着すると、二人でエレベーターに乗った。本田はドアが閉まるなり、斜め上のミラーに自分を映して髪を整え始めた。四十代にしてはかなりの薄毛で気にしているのだろう。私はだいぶ引いた目でその仕草を見ながら、こんなに髪型を気にするということは家に誰か来ているのだろうかと訝しみ、同時に胸が高鳴った。
 七階フロアに着くと、本田はエレベーターすぐ横の部屋の前に行き、鍵を差しこんでドアを開けた。いつも控えめな動作をする本田には珍しく、豪快にドアを開け放ったので少々面食らったが、お陰ですんなり中に入ることができた。
 誰かの家に入るのは久々だった。『透明ドロップ』を舐めて、何度か不法侵入を繰り返した経験があるが、最近は減る一方のドロップの数を気にして、あまり実行していなかった。
「お邪魔します」
 いつもそうするように、心の中で唱えた。これを言うか言わないかで、後々胸に残る罪悪感が変わってくるのだ。
 本田はスーパーで買った食材を冷蔵庫にいれるためキッチンへ向かった。その間、私は恐る恐る、だけど大胆に部屋の中を見て回った。
「わりときれい」
 思わずつぶやいてしまうのは、きっと私だけではないはずだ。この家へ訪れた人はきっと第一声、そう言うだろうというくらい、小綺麗に整っていて清潔感があった。
 私は感動してしまった。この綺麗に保たれた部屋を見ていると、本田の加齢臭や髪の乾燥は、努力でどうにかならなかった類のものかもしれないと思い始めて、赦してあげたい気持ちになった。
 私は清潔なリビングの清潔なソファに腰掛け、本田を観察した。まだスーツ姿でテキパキと動き回っている。この家に私達以外の人間の気配はなかった。
 掃除、洗濯を済ませ、シャワーを浴びた本田は、清潔感のある部屋着に着替えて、ビールを一缶開けた。私はそのビールが、キラキラと輝くグラスに注がれるのを見て喉を鳴らした。しばらくはさも気分が良さそうに膝を打ってリズムを取りながらビールを飲んでいた本田は、グラスを持ってキッチンへ移動した。次は何をするのかと思えば、鼻歌混じりに料理を始めた。
 おそらく〝作り置き〟というものなのだろう。手早く、人参ラペ、おひたし、ひじきの煮物などを作っていく姿に、いつしか私は見とれていた。
「誰にも見られていないところで、人としてこのクオリティ。どうかしてる」
 私は、本田に今までとは違う種類の興味をもち始めていた。
 すっかり感心しきっていたが、この何も起こらない状況にも飽きてきてしまった。そろそろ帰ろうかと思い始めた頃、本田が窓際に立ち、突然カーテンを勢いよく引いた。どうやらこの男は、玄関のドアといい、冷蔵庫の開閉、カーテンの引き方など共通して、何かを開けるときには随分と豪快だった。
 そんな一面にゾクッとしている自分がいる。〝清潔感+豪快さ〟のギャップ萌えだと確信した。
 本田はベランダに用意されたあるものの前に椅子を置くと静かに腰を降ろした。私がいるソファからは本田の前に置かれたものがなんであるのか、暗くてよく見えなかった。その頃にはすっかりソファに寝そべってくつろいでいた私も、興味から起き上がり、ベランダに出た。
「望遠鏡?」
 まるでロマンティストそのものだ。いったいどういうつもりなんだと問い詰めたくなるくらい、望遠鏡と本田の組み合わせは優雅だった。
 金曜の夜に家事を楽しみながらこなし、挙げ句星を見るこの男、どうして未だ独身なのだろう。だけど、なんとなくわかる。あまりに居心地が良いのだろう。パートナーを必要としないほどに、この生活には完璧さがある。子供を望まないのであれば、一人のこの生活を手放したくないと思うのは当然な気がした。
 私は、少しだけ本田のことがわかった気がして、とても満足していた。
 不倫もきっとただの噂に過ぎない。そう思った。こんな快適な生活にわざわざリスクを犯して持ち込みたくなるような恋など存在するだろうか。
「しらんけど」とつぶやいて、室内に戻ろうとしたその時、本田がぼそっとなにか言った。
「フェザーバードちゃん」
 私は振り返り、本田を見た。望遠鏡を覗き込みながら、変なリズムに乗せて「フェザーバードちゃん」と繰り返している。
 私はその言葉に聞き覚えがあった。小学生の頃、ほんの一時期、自分のあだ名が「フェザーバード」だったことがあるのだ。
 羽鳥=フェザーバード。私は身震いした。
「おかしいな。もう十一時なのに。今日は干さないのかな、洗濯物」
 私は〝十一時〟〝洗濯物〟という言葉に反応した。
 普段私は、夜に洗濯をする。家に帰ってからすぐに洗濯機を回し、シャワーを浴びる。それからドラマを見て、洗濯物を干しにベランダへ出るのが大体いつも十一時なのだ。
「不良だ。今日のフェザーバードちゃんは不良だ」
 はあ、とわざとらしく大きなため息をついた本田が望遠鏡から顔を離し、部屋に戻っていく。すかさず私は本田の座っていた椅子に腰掛け、望遠鏡を覗いた。
 まず見えてきたのは、ベランダに並んだ家庭菜園の緑。そして、望遠鏡を少し動かすと見知ったカーテンの柄が目に飛び込んできた。その奥にリビングの一角が見えた。私の姿見、私のソファ。私の……。私はひどく混乱した。鼓動が速く、手が震え始めた。私はついに望遠鏡から顔を離してしまった。
 どうして……どうして本田は私の部屋を覗いているのだろう。フェザーバードちゃん? 意味がわからない。
 私と本田は割と近い距離に住んでいることを互いに知っていたが、住所や部屋の番号まで教え合ったことはない。
 今見たのは、本当に私の部屋だろうか。
 もう一度覗いてみるのは怖かったが、しっかり結論づけるため、私は再び望遠鏡を覗いた。
 間違いない。マンションの角部屋。私の部屋だ。
「え、待って」
 だけど、なぜ? なぜ一人暮らしの私の家に明かりがついているの? 今朝私は、電気をつけたまま家を出たのだろうか。いや、ケチな私がそんなこと……。
 ゆっくりとマンションの壁を沿わせて、覗いた望遠鏡の視点を動かしていく。すると、寝室の窓にたどり着いた。ベッドスタンドの明かりが、カーテンの隙間から漏れている。おかしい。私は昨日、スタンドの明かりをつけていないはず。
 私の心臓は跳ねていて、今にも飛び出しそうだった。気になる。だれか私の家に侵入した者があるに違いなかった。私は取り乱していた。あまりに前のめりに望遠鏡を覗き込んで、直後ガタンと音を立てた。
 ヒヤリとして動きを止め、ゆっくりと振り返る。そこに、本田が立っていた。私を見て微笑んでいる。だけど、見えているわけがない。だって私は、「透明ドロップ」を舐めたのだから。
「お返しのつもり?」
 本田は言った。
「僕が透明ドロップを舐めて君の家に入ったから、今更仕返しのつもりですか?」
 不気味な声だった。逆光で顔が暗いが、おそらく笑っている。
 まさか、今この姿が見えているはずは……。だけど、明らかに目が合うのだ。そして私に語りかけている。本田と私は確かに見つめ合っていた。
「初心者なんだな。なら教えてあげよう。透明ドロップを互いに舐めている者同士は見えてしまうんだよ」
 本田は、くうう、と笑った。聞いたことのない笑い声だ。
「スーパーに入ったら透明になろうと思って舐めたら君がついてきていて驚いたよ。言葉を発しないでピッタリ寄り添っているから、君も舐めているんだって、すぐにわかった。万引きしているところを見られたのは恥ずかしかったけれど、それにも気づいていないようだったし。本当に抜けてるよな・・・・・・、フェザーバードちゃんは……」
 本田は笑いを堪えているようだ。私は怒りに震えた。こいつは見ていたんだ。毎日毎日。この望遠鏡で、私が洗濯物と一緒にアレを干すのを。
 かつら。私の毛はほとんど抜け落ちているのだ。透明ドロップの副作用、それは激しい脱毛だった。
 本田は自らの髪の毛にそっと触れた。仲間だ、とでも言いたげに。私は吐き気を堪えてもう一度望遠鏡を覗き込んだ。
 私の家の中に、禿げ頭の男が二人、うろついている。中毒者だ。透明ドロップの中毒者がどう探し当てたのか、同じ中毒者である私の部屋に盗みに入ったのだ。だけど、いくら探しても無駄だ。私は今日、最後のドロップを舐めてしまったのだから。思い出して手が震えた。頭がむずむずする。もう、私の手元には透明ドロップがない。その事が頭の中を占拠する。
 私は血走った目で本田を見た。今にも発狂しそうだった。
 そんな私を哀れんでいるのか、優しい微笑みを湛えた本田は、ポケットからあるものを取り出した。
『透明ドロップ』。異常に中毒性のある危険薬物だ。本田の手のひらの上で光るそれを見て、私の緩んだ口元からだらりと涎が垂れた。






 


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