十月 (短編小説)
春ってさ。
肌寒いよね。実は。
暖かくて、いかにも煌めきが弾けているようで、そう見えているだけ。
私の手足は冷えてる。
それって、春っぽいコーディネートのせいかもね。
だけどやっぱり、どこか空気が冷たいんだよ。体の芯から冷えていくような。
・
私は『管理人』と名乗る男性から知らされた住所へ向かっていた。その人は、姉の住むマンションの管理人だという。正確に言えば、姉が住んでいたところの。
知らない街へ向かう電車の窓から見える景色は、どことなく素っ気ない。それは「私には関係のない街」という先入観を持って見るからだろうか。
「なーんか。きらきらしてんなあ」
線路脇を通る女子高生たちを見る私は、いつからかそんな皮肉を言うようになっていた。皮肉を言ってはいるけど、彼女たちを眩しく思う気持ちがまだ残っているだけマシだろう。
窓の外を眺めながら、ぼんやりと思い出す。狭いマンションで両親と姉と私が、4人で暮らしていた頃のこと。
私は、この時父のことを思い出していた。
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父が帰宅するとなんだか嬉しかった。
外から帰ってきた父に、姉と私は、我先にと抱きつく。
大抵は、2段ベッドの下段にいる私の方が先に抱き上げてもらった。
父が連れてきた夜の匂い、冷たいスーツの感触、髭の匂い。今もで思い出せる。
待ちきれない姉が私の足を引っ張るんだよ。
「早く交代して!」って。
だから尚更強く父の首にしがみついたんだ。
そんな思い出。
・
そのマンションのエントランスは暗かった。外壁は塗り直したのだろうが、だいぶ老朽化しているように見えた。
マンションの入口の扉に手をかけて、ふと、姉はここを毎日通っていたのだろうかと想像する。
「おもっ」
思わず声が出るくらい重い扉を開けて中に入った。空調が効いているようにひんやりしていた。すぐ脇には管理人室があった。
管理人室の小窓から中を覗くと、男性が一人いて、直ぐに私に気づいてくれた。
中から現れた男性は、昨夜の電話の相手だった。
「井口です。井口サオリの身内のものです」
そう言ってちょこっと頭を下げると、男性も真似したようにちょこっと頭を下げた。
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男性と連れ立って姉の部屋へ向かった。
この人は無口だ。だけどなーんか、空気読んでんだよね。心地良い、ちょうどいい気遣いを感じる。昨夜の電話の時からそう思った。
姉は何日も無断欠勤をしたそうだ。姉の勤め先から連絡を受けたこの管理人の男性が、姉に電話をかけたが連絡がつかないから見に来てほしいって。連絡してきた。
・
男性は部屋に鍵をさして、開くことを確かめると、一呼吸置いて私に言った。
「大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「いや、何となく。心細くないかという意味で」
「大丈夫でしょう、死体が転がってるわけじゃあるまいし」
私は強がっていたかもしれないけれど、男性のなんとも言えない表情に吊られないように、無理して笑って見せた。
男性が去ったのを確認して、私はドアを開けた。中からは、知らない家の匂いがした。
入ると直ぐに小さな小さなキッチンがあって、所狭しと物が置かれていた。姉は上手く吸盤のフックを使って吊り下げ収納をしていたようだ。様々な日用品が宙に浮いているおかげで、足元は綺麗だった。
「失礼、しまーす」
姉とはいえ、人の家に勝手に入る気分は、あまり心地のいいものではない。
リビング兼寝室へ足を踏み入れると、ある程度の空間が確保されていてほっとした。
「空気入れ替えなきゃ」
私は窓を開けた。近くの建物と距離が近いので、なるべく控えめに開けるようにして、動かすとガシガシ音のする網戸を閉めた。
ベッドに座るのはなんだか悪い気がして、敷いてあるラグの上に腰を下ろした。
生活感のあるキッチンの印象とは違い、リビングは頑張って集めたような女子っぽい輝きのあるインテリアに囲まれていた。
「私、何しに来たんだっけ」
ついさっきまで姉がいたような雰囲気を残した部屋の中で、自分が何をすればいいのか分からなかった。
・
最近の姉は、こういう服着てるんだ。
カーテンレールにかけっぱなしの洗濯物が生々しい。下着とか。結構ブリブリの女子。
姉はいつでも誰かと行動を共にする人だった。
一人行動が好きな私とは大違いで、友達の家、彼氏の家を渡り歩くような人。
疲れんだろうなーって思ってた。
愛想笑いが顔に張り付いたような顔してさ。
飲めない酒を、飲んで飲んで強くなったのも健気だなあと思った。あのころ、姉は幸せだったのかな。
・
姉の部屋に目が慣れてきた頃、テレビの脇に積まれた雑誌類の上にノートを見つけた。
表紙に『十月』と書いてあった。
「はて、十月?」
ノートの表紙にタイトルを書く人を珍しく思ったし、今は学生でもない姉が、ノートに何かを綴っていることが意外だった。
「見る?見ちゃう?」
自分へ問いかける。
「見た方がいい?見ない方がいいの?」
自分が姉の立場だったら、と考えるとなかなかノートを開けずにいた。
・
臆病な姉が無断欠勤をしたという。
一緒に暮らしていた頃は、なるべく迷惑をかけないように生きていた姉。だけど流されやすく、いつの間にか、誰にそそのかされたか、家族の前から居なくなった。
おばあちゃん子だった姉は、祖母の命日には実家へハガキを送ってきていたから、一応の生存確認はできていたけど、ここ3年ほどはハガキさえ届かなくなった。
私は、このいかにも主人公を気取ったような姉の行動に呆れていた。
だってさ、いい歳してさ、なにしてんの?って感じ。
・
『十月』と書かれたそのノートを手に持ったまま、数分間悩んだ末、ついに開いてみることにした。
「こんなとこに置いておくってことはさ、見られてもいいって気持ちがあるよ、絶対」
私はこのノートを開く理由が見つかった気がして、なるべく気楽にと、パラパラとページをめくった。
「まじか」
ノートをめくる手が止まった。
・
ノートにはモノクロカラーのエコー写真が貼ってあった。エコー写真というのは、よく妊娠した女性が意味深にSNSでチラつかせるあれだ。
地味なノートにエコー写真。添えてある言葉のひとつもない。
このノートと、この部屋のキラッとしたインテリアと姉が、私の中で上手く結びつかない。
はたして、これは姉が子を宿しているということを意味するものなのだろうか。
姉の部屋に、エコー写真の貼り付けてあるノートがあったとして、姉自身が妊娠しているという確率は?
なぜだか、信じたくないような気持ちで、私はノートの一番初めのページを開いた。そこには中央付近に黒い穴のようなものが写っているだけだった。日付を見ると12月7日となっている。
次のページにもエコー写真があって、それは1月9日だった。黒い穴の中に、雪だるまのような白い影が写っていた。間違いなくそこには、生命が宿りそれが成長している様が写されていた。
・
何年も会っていない姉の部屋で、突然姉の子供らしき画像と対面した私は途方にくれていた。
私は何をしに来たのだっけ?
嫌がる両親の代理で、一先ず姉が部屋の中で死んでいないことは確認できた。「十月」という謎のノートを残し居なくなった姉の腹の中には、新しい命が育っているのかもしれないという情報も掴んだ。
管理人には、部屋はこのまましばらく残してもらうように頼もう。姉の職場の人には、もう諦めてもらうしかない。というか、とっくに姉の席はないだろう。
さて。
これ以上ここにいても無駄だ。
帰ろうか。
・
その時、背後でドアが開けられる音がした。振り向くと、入り口に、何やらたくさんの荷物を抱えた人影があった。
「え?」
私は顔が良く見えるところまで歩いて行った。
「ああ、久しぶり。今管理人さんから聞いた。なんかいろいろ……ごめんね」
姉だった。姉はスーツケースといくつかの紙袋を腕に下げて立っていた。
「入っていい?」
「どうぞ。つーか、お姉ちゃんの部屋だし」
「そっか」
姉は狭い玄関にどうにかスーツケースを置くと、吊り下げ収納に体が当たらないよう、うまく避けながらリビング兼寝室へ入ってきた。
「ちょっと旅行、行っててさ」
「旅行?仕事放って?身重の体で?」
姉は一瞬、動きを止めたが、またゆっくりとした動作で荷物を床におろし、自分も座った。
「そうそう。そうなのよ」
「なにがそうなの?」
「子供ができたの。生むよ。だから挨拶に行ってきた」
「挨拶?どこへ?」
「彼の実家。富山県。昔知り合いにさ、富山の人間に悪い人はいないって言った人がいたんだけど、ほんとだった。皆、すごく良い人たちだった」
そう話しながら、姉はお土産の箱の一つを開けて私に差し出した。
「富山の銘菓。好きでしょ。カスタードクリーム」
姉が一つ渡してくれた蒸し菓子は、スポンジ生地の中にクリームの詰まったお菓子だった。
「ありがと」
私は、姉が言うように、こういう菓子に目がない。早速包を開けて食べ始めた。
「ん、おいしい。良いかも。富山」
「でしょ?」
姉が笑った。
「で、仕事の方は?大丈夫なの?」
「あー。仕事ね」
姉の視線は言葉を探すように彷徨い、カーテンレールにかけてあるブリブリの下着で止まった。
「体、使う仕事だから。どのみち、子供出来たからもう無理なのよ」
私も姉の視線を追って、ブリブリの下着を眺めた。
「ねえ、このノートの『十月』って何」
「じゅうがつ?違う違う。それは『とつき』よ。子供が生まれるまでを『十月十日』って言うでしょ。その『とつき』」
「ぶぶっ」
私は吹き出した。ノートのタイトルが『とつき』?ふざけてる。
「あんた。知らないの?あんたも私も、『とつき』ぴったりに生まれたのよ」
「はあ?誰が言ってたの?そんなこと」
「おばあちゃん。数えてたんだって。そしたら、ぴったり『とつき』」
「ちょっと、やめてよ。笑わせないで。おばあちゃんの言うことなんて、大体でたらめだったじゃない」
「酷いこと言うね、そんなことないよ。私はね、おばあちゃん大好きだから信じてる。だから、きっと私の子も『十月』ぴったりに生まれるのよ」
私は『十月』と書かれたノートに目をやってから、姉の顔をしっかりと見た。
「大丈夫なの?その彼と、ちゃんとやっていける?子供、育てられる?」
私は数年ぶりの姉をよく観察した。
30代半ばになり、少しは劣化したものの、妊娠した効果か、肌は綺麗で、何より幸せそうなオーラが出ていた。
「私ね、すごい迷惑かけたと思う。今もかけてるよね、わかってるの。だけど、これからは本当にちゃんとするから。絶対」
「じゃあさ、ちゃんとお父さんとお母さんに報告にいける?」
私の言葉に、姉の目が揺れた。少し考えてから姉は言った。
「お父さんとお母さん、怒ってない?私のこと」
「怒るって言うか……呆れてる」
「だよね」
「ちゃんとしたいなら、そのお腹、見せてあげなよ。そんで、彼も紹介して、ちゃんと家族になりな」
「そんなこと出来るかな……」
不安そうな姉が、一気に何年も前の姉に巻き戻っていくようで、私は慌てて姉の手を掴んだ。
「やりなよ。やり直しなって。別になにか悪いことした訳じゃない。ただの不良娘なだけなんだから」
姉がははっと笑う。
「うっそ。私、不良なの?」
「どう考えてもそうでしょ」
へぇーと他人事のように感心している姉のお腹に、そっと手を伸ばす。
「あ、まだ全然だね」
「まだ5ヶ月だからね」
「私も赤ちゃん、見たいよ」
姉は何も言わず、愛おしそうにお腹を撫でた。
「ここは出ていくの?」
私は部屋を見渡してから聞いた。
「うん。近いうちに。富山に行く」
「あの管理人さん、結構良い人だから、富山のお土産あげたら?」
「あ、それいい!」
姉は慌ただしくお土産を漁ると、一箱選んで紙袋に入れた。
「帰っちゃうかもしれないから、今渡してくる!」
バタバタと動く姉に私は声をかけた。
「ねぇ、子供のこと、いつも考えてね」
姉はにっと笑って、玄関のドアを開けて出ていった。
静かな部屋に残された私はまたあのノートを手に取っていた。
「とつき……」
ぶぶっとまたひとりで笑う。そしてエコー写真の中に映る、姉の子供に「ありがとね」と心の中で呟いた。
[完]