短編小説 | 黒の代償
いつもの朝だ。いつもの私だ。大丈夫。
いつものキッチンに立ち、鼻の奥から何度も生まれてくるあくびを、何度でも噛み殺す。
狭い我が家のキッチンにはガラス扉の食器棚がある。その前で立ち止まり、扉に映った自分の姿に目を凝らす。今日の私に、どこか変わったところの一つでもないだろうかと、ガラスに顔が付きそうなくらいに近づいて自分を凝視していた。ちょうどその時、リビングに夫が入ってきた。
起きがけにコップ一杯の水を飲むため、夫がキッチンの中へ入ってくる。私はその気配を、黙って背中に受け止める。朝の挨拶を交わすことがない私たちは、それぞれの動きの邪魔にならないように、キッチンの中で、流れるように立ち位置を変える。決して互いの体の一部が接触することのないように。
夫が食卓についたことを確認して、冷蔵庫から冷奴を取り出した。皿に盛って万能ネギを刻んでかけた。そこにチューブタイプの生姜を多めに絞る。薬味を乗せた冷奴の皿を持ち、夫の元に運ぼうと一歩踏み出して、ふと目に止まったネギの量がいつもより少ない気がして、少し足した。
冷奴と同時に夫専用の醤油差しを食卓へ運ぶ。醤油差しを夫の前に置くと、夫はかすかに眉を上げた。
朝食をテーブルに並べ終え、夫の斜め向かいの定位置に腰掛けた。私は何も言わず、静かに食事を始める。すると夫も、熱心に操作していたスマートフォンから顔をあげた。
「いただきます」
夫は無愛想に言った。私はいつも通り「はい」と返事をする。
夫が醤油差しに手を伸ばす。夫はまず、一番手前に置かれた冷奴めがけて醤油を差していく。醤油をかけられたことにより、山のように乗っていたネギは崩れ落ち、豆腐の周りを囲っていく。ネギの下から現れた生姜も、醤油に溶かされ流れ落ちた。次に夫は、アジの開きに醤油を差した。黒い衣服を纏うかのように、アジ全体が黒く染まる。そうして最後に、この『醤油ショー』の終わりを告げるかのごとく、醤油差しを持った手首をぺこりとお辞儀をするように曲げると、味噌汁にも一度だけ醤油を差した。
出社する夫を玄関で見送ると、私はリビングに戻りソファーに横になった。すぐ近くの窓から差し込む陽の光は、ソファーの色を変える程に明るい。陽の暖かさに身を委ねていると、頭の奥にじんわりとしびれるような感覚が生じた。目を閉じて、じっと感じ入る。すると昨日味わった甘美な感覚が思い出されて、背徳感から思わず顔を覆った。
眉をひそめてしまうような刺激が体中を何度も駆け巡った。あの時間は本当に現実だったのだろうか。たとえ夢であったとしても、それで良いのかもしれない。ここ十数年忘れていた感覚、いや、決して忘れていなかった、焦がれるような感覚だった。
何一つ昨日の熱を吸収することのなかった、ひんやりとしたスマートフォンを手に取り、開いた。消し忘れていた検索履歴を消去していく。『女性用風俗 女性セラピスト』。
それから電話をかけた。天井のくすんだ白さを見つめながら、コール音を聞く。
「もしもし、早紀。おはよう」機嫌の良さそうな恵の声。
「おはよう」
私から電話をかけたのに、私からは話したくない。
「どうだった」と恵が訊く。
「うん。良かった」
「良かったでしょ」
「うん」
私は恵のささやくような声を聞いて、昨日のセラピストの柔らかい腹部や、魅力的な香りを思い出していた。
「そっか。それなら良かったわ。満足したのね」
「うん。そうだと思う。こんなに手軽にできることなら、もっと早く利用すれば良かった」
あら、と言って恵がくすっと笑ったので、私の顔も緩んだ。
「もう男性とはしなくても良いかも」
私はぼそっとそんなことを呟いた。
「へえ、そんなに良かったんだ。次は指名したら?相性が良かったのよ、きっと」
相性。決して私と夫も体の相性は悪くなかったはずだった。もう遠い昔のことで、思い出すことは出来ないけれど。
「旦那さんは、気づいてない?」
恵にそう言われて、今朝の夫を思い出した。私の前ではスマートフォンからめったに顔をあげない夫。言葉をほとんど発しない夫。朝食にたっぷり醤油をかける夫。
「何にでも醤油を足す人よ。気づくはずないわ」
私はどうしてか笑いがこみ上げた。一体、何に対して笑っているのだろう。無駄に続いているこの滑稽な結婚生活か。それとも、女性と体を重ねたことで新しい一歩を踏み出した気でいる自分自身にだろうか。
翌朝も、またいつものように夫の朝食の準備をした。私はいつも通り、夫の斜め向かいの席に座った。
「いただきます」
そう言ったのは私だった。
夫は不思議そうに私を見て、黙って醤油差しに手を伸ばした。
夫が放つ黒い汁が、食卓に並ぶ一品一品を覆っていく。私はその黒く輝く液体を見ながら、あの日つややかに光った女性の美しい黒髪を思い、そっと自分の髪をなでた。
[完]
小牧幸助文学賞の副賞をいただいた記念に書きました。
夫の無頓着さ、無関心のその代償。
この20字小説を書いた時には、妻が嫌がらせに何か食事に混入させたとか、健康に被害が及ぶようなことをしたイメージで書きましたが、もっと切実な妻の訴えにも読みとれることから、この物語を創作しました。