許す、手放す、諦める…のではなく、飽きた。
この記事に書いたことを、カウンセラーと話した。
「私はアダルトチルドレンで、生きづらさの根底は親子関係に難あり」と(衝撃的だったが)気付いて以降、ずっと(同じ人ではないけれど)カウンセラーをつけている。自分にとっては人間ドッグみたいなもので、この世界でいうところの「認知の歪み」が度を越してしまわないように、ときどき、「第三者のプロ」と話すようにしている。
これは、友達とかしがらみのない人がいい。何よりプロがいい。
先生は「飽きた、ってのがいいね。なんかさ、手放すとか、許すとか、諦める…ってなんか違うよね。うん、すごくいいと思う。」とコメントをくれて、本当にそうだと心から思った。
先生と話しながら「飽きた」まで行きついた軌跡を、懐かしく感じて思いめぐらせた。
私のような、カテゴライズにいる人が苦しむアドバイスに「許す」というのがあると思う。私もどれだけ、この「許す」に悩んできたか、苦悩したか。
どの本を読んでも「許せば楽になる」とか「許そう」みたいなことが書いてあって、素直に「そうしよう、そうしてみよう」と試すのだけれど、一向に何も変わらず、途方に暮れた。そう思っても、一旦はそうしても、無理がたたって「許せない」に立ち戻る自分を責めた。
ところが、「毒親」というフレーズが流行りだしたきっかけになったと思われる本、
の内容を私的に総括すると「そんなの、許さなくていい」というのがメッセージであり、命拾いした気がする。だって、そんなもの、許せないのだから。
この「許せない」を飛び越えて「許す」にたどり着くことなんてできない。
もしかしたら、心の広い、仏みたいな人がいたとしても、一旦「許せない」に着地しないと、次にはいけない。私は現在、そう確信している。
自分に起こった事実を受けとめて(←まず、ここが最難関)
「親を許せない」と素直に感じてみる。(←これもまた、慣れてないので難関)
許せないまま過ごす。結構長い間。
その間も「許せないこと」は重なって起こる。
「もうそろそろいいだろう、許そう。」という自分と
「ああ、やっぱり無理。つらい。」の間をずっとうろうろする。
親は老いるし、自分の残り時間が少なくなっていくことも感じるし、そもそも、いつまでこんな負の感情に支配されるのか、とつらくなる。
この期間がまた長い。
きっと、事実にも気持ちにも蓋をして、逃げるのもありなんだと思う。
器用な人は、そうやって生きてるんだろうと思う。
どっちがいい、みたいなのはわからないけれど、それもありだなあと。
ただ、自分にはそれが出来なくて、ずっと「渦中の人」としてそこにいて、戦い続けた。
それが20年を過ぎたとき、「許すとか、許さないとか、もうわからないけれど、飽きた」にたどり着いた。飽きたから、もういいや、と。
これは、長年、思い悩み、その都度学んで、勉強して、理解して…なんとか生きてきた私としては、「たどり着いた感」があって。
まるで、子供が飽きたおもちゃをぽいってするみたいに、ぽいってしようと思えた。後生、大切に抱えてきた問題を。
もう、それでいい。
手放したからといって、これまで「まるでなかった」ものでもない。
確かに、この間までがっつり掴んで、離せなかった感触は残る。
これはこれで、自分の経験値になっているのかもしれないし、まったく無意味かもしれないけれど、でも、もう飽きたから。
悩むの飽きたんだよね。
これは、結構新しい境地だな、と思っている。
私は親のことを許してない。ただ、飽きたから次にいく。